演奏会の履歴

日立フィルで過去に取り上げた作品を演奏会別にご紹介しています。

9回定期演奏会(曲名をタップ/クリックすると解説文が表示されます)

2000年7月29日(土) かつしかシンフォニーヒルズ 指揮/新田 ユリ

メンデルスゾーン劇音楽「真夏の夜の夢」序曲 作品21

1826年、当時わずか17歳だったメンデルスゾーンは、ドイツ語訳でシェイクスピアの喜劇「真夏の夜の夢」を読み、その夢想的な世界に魅了され、一気に序曲を書き上げた。しかし、彼がこの時に作曲したのは、序曲だけであり、他の12曲の劇音楽は、1843年、プロシア国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の命により作曲したもので、序曲と劇音楽には、なんと16年もの隔たりがあるのだ。しかし、その時間の隔たりを少しも感じさせない所に、彼が若くして、すでに完成された天才であったことがうかがえる。

序曲は、ソナタ形式で書かれている。第1主題は、弦の難解?!いや、繊細な動きによって妖精の戯れが表現されている。第2主題では、ライサンダーとハーミアの愛の心を表す調べが。そして、ベルガマスク舞曲が第3主題的に登場する。この舞曲の低音部で、壮大な響きを奏でるバス・テューバは、現在では、ほとんど見ることのない当時の低音楽器「オフィクレイド」の役割を果たしている。最後に、再び木管による和音で、序曲は静かに幕を閉じる。

(Vn 飯泉真由子)

グリーグ「ペール・ギュント」第1組曲 作品46、第2組曲 作品55

この曲はイプセンの詩劇『ペールギュント』の劇付随音楽である。全曲は5幕23曲からなるが、後に各4曲からなる2つの組曲が編曲された。劇のあらすじは、おおよそ次のようなものである。

ペールは母オーゼと貧しい生活を送っていが、夢想家の彼は村人からは相手にされていなかった。そんな彼にはソルヴェイグという恋人がいたが、幼馴染のイングリッドの結婚式で花嫁を奪って山に逃げ込んでしまう。しかし、すぐに彼女に飽きてしまうと放浪の旅に出る。捨てられたイングリッドはペールを怨む(第2組曲-1)。あるとき魔物の住む山へと旅立ったペールは、そこで魔物トロル達にひどい目に合わされる(第1組曲-4)。何とか山から逃げ帰ったペールが故郷に帰ると、母オーゼの死が近づいていた。息子を溺愛していたオーゼは、ペールの作り話に幸福そうに耳を傾けながら静かに息を引き取る(第1組曲-2)。

心機一転、ペールはアフリカへと向かう(第1組曲-1)。砂漠に迷い込んだペールは偶然皇帝の衣装と馬を手に入れる。彼はそれを使って預言者に成りすまし、アラビア人の部族に取り入る。そこで彼は乙女達の踊りでもてなされる(第2組曲-2)。その中で一際美しい酋長の娘アニトラは官能的な踊りでペールを誘惑する(第1組曲-3)。しかし、彼女はペールの財産を騙し取ると彼を砂漠に置き去りにする。その後再び富を築いたペールは、年老いて帰郷の海路につく。しかし、彼が乗った船は嵐に遭い難破する(第2組曲-3)。また無一文になり、命からがら故郷へたどり着いたペールを待っていたのは、純心なソルヴェイグであった。ソルヴェイグはペールのすべてを許し、子守唄を歌いながらペールを寝かしつける(第2組曲-4)。ペールはやっと得た安らぎの中、静かに眠りに就く。

都合により多少不正確な部分もありますが、この解説を手がかりに音楽に対するイメージを膨らませて戴ければ幸いです。

(Hr 大内智彦)

ブラームス交響曲第4番 ホ短調 作品98

ヨハネス・ブラームス(1833~1897)は北ヨーロッパ最大の港町ハンブルグに生まれました。若くしてピアニスト・作曲家として頭角を現したところをシューマンによって大々的に世に紹介されてしまい、内向的な性格のブラームスには辛いことながら、逆に世間から注目され続けることになります。やがてウィーンで活動し次々に名曲を残しました。

当時のヨーロッパでは音楽の中に詩的な要素を前面に打ち出そうという動きが主流で、リストやワーグナーを中心とするグループが、「交響詩」や標題音楽を発展させていました。元来、王侯貴族のものだった音楽芸術がベートーヴェンの時代に大衆のものへと移行し、「第9交響曲」で交響曲の中に詩的な要素が盛り込まれると、やがてベルリオーズの「幻想交響曲」やリストの交響詩で標題音楽が強調されました。聴衆もまた、わかり易い音楽を歓迎したのです。その一方、かつて「器楽による音楽の最高形式」だった交響曲は「崇高なもの」から「迂闊に手をつけられないもの」になっていきました。ブラームスは「絶対音楽」として交響曲を復権させるのですが、それは当時主流の音楽グループからの格好の標的でした。

交響曲第4番は1884年夏に最初の2楽章が、翌年夏に残りの2楽章がウィーン郊外の保養地で作曲され、1885年10月に友人ハンス・フォン・ビューローの指揮するマイニンゲンの宮廷オーケストラで初演されました。ブラームスも懸念していたこの曲の難解さは、ビューローの熱心な努力により克服され、初演以降各地で成功を収めます。が、一方で「室内楽的」で「情感や創造性に乏しい」との容赦ない批判にも晒されました。当時室内楽は「上流階級・知的階級のもの」とされていた上、作曲者・演奏家・聴き手が感じるものを共有せず、各々の主観に委ねるこの分野は主流でなかったのです。また、古典的な様式・編成の枠の中でメロディーの断片を紡いでいくブラームス独特の作風も理解され難かったのでしょう。しかし、古典的様式を習熟技法と独創的手法で内部から崩壊させ、更に様式を発展させている傑作という専門家の意見を引くまでもなく、生涯独身だった作曲者晩年の心情を思わせる哀愁に満ちたこの曲が、マーラーやR.シュトラウスが流行している現代でも尚不動の地位を築いて、我々に様々な感情を呼び起こさせることが、この曲の真価を充分に表しているのではないでしょうか。

(Vc 中村 晋吾)

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