演奏会の履歴

日立フィルで過去に取り上げた作品を演奏会別にご紹介しています。

15回定期演奏会(曲名をタップ/クリックすると解説文が表示されます)

2003年7月27日(日) 東京芸術劇場 指揮/新田 ユリ オルガン/松居直美 (日立メディコ創立30周年記念)

カスキ前奏曲 作品7-1

シベリウスから20年後の1885年6月21日にフィンランドの東側、現在のリエクサという町の一部であったピエリスヤルヴィに生まれたヘイノ・カスキは教会の牧師だった父親から音楽の手ほどきを受けている。ヘルシンキでは教会オルガンの勉強とヴァイオリンの勉強を行う一方、プライヴェートでエルッキ・メラルティン(1875-1937)そして後にシベリウスにも作曲を師事している。そしてシベリウスの推薦を受け1911-1914と1920-1924の2度に渡りベルリンに留学をしている。

ヘイノ・カスキは多くの室内音楽と100を越えるピアノ作品が良く知られている。サロン作曲家と称される所以である。同じ北欧ノルウェーのエドワルド・グリーグと比較されることが多いようだ。カスキには変ロ短調の交響曲があり、自身ではこれを主要作品として挙げている。この前奏曲は1912年に書かれたピアノ作品。甘美な旋律を優美なハーモニーで占められた小品である。

シベリウス交響曲第3番 ハ長調 作品52

1900年のパリ万国博覧会にシベリウスは副団長として、そしてロベルト・カヤヌスの副指揮者としてヘルシンキ・フィルハーモニーに同行した。ここでシベリウスの「交響曲第1番」「フィンランディア(当時は祖国と名前を変えて演奏)」「トゥオネラの白鳥」などが演奏された。20世紀の初め、フィンランドはまだニコライ二世皇帝のロシア帝国の支配下にあり、19世紀末から後年独立運動に繋がる自治政府での憲法擁護派とロシア化を容認する勢力の対立が強まっていた。そんな中シベリウスはフィンランドをまとめる、自由闘争の象徴としてフィンランド全国民から期待される作曲家となっていた。

1892年4月フィンランドの国民的文学、カレワラ叙事詩にテーマを持つ交響詩「クッレルヴォ」の初演がヘルシンキ大学講堂で大成功を収めた後、シベリウスはアイノ・ヤルネフェルト嬢(1871~1969)と結婚した。若くしてその才能を国家に見出された作曲家シベリウスはその後およそ10年の間、ヘルシンキで、又旅先のベルリンで芸術家仲間と都会生活の中で人生を謳歌。酒場で深夜までの芸術論政治論を戦わせることに夢中になっていた。家庭を持ち、1893年に長女のエヴァを1895年には次女のルートを授かり、1896年からは政府による芸術家年金を受け安定した生活に見えていたシベリウスだったが、その実経済的には困窮しそれでも贅沢で享楽的な生活はやめなかった。特に身なりへの高級志向は結婚前のベルリン留学時代にもその片鱗を見せ、奨学金が短期で底をつくという事態を招いたほどだった。喫煙と飲酒は交響曲第4番を書く頃、咽頭ガンが見つかるまで続けられた。

この作曲家の生活を立て直そうと、生涯をシベリウスへの支援に費やしたアクセル・カルペラン伯爵(1858~1919)はシベリウスに都会を離れ郊外へ居を移すことを薦めた。こうして1904年夏の終わりに一家はトゥースラ湖から2キロというヤルヴェンパーという地域の土地に終の棲家、「アイノラ」の家を持つこととなった。

1899年に交響曲第1番を完成、1901年にイタリアで交響曲第2番を書き始め翌年完成させたシベリウスは仕事上の成功とは反対に、経済的困窮の原因を作ってしまう自己の弱さを家庭で痛感しながら日々を送っていた。己の弱さから逃避するために痛飲し、又生来のあがり性を克服するためにも、指揮台に立つ前に飲酒をすることもあったようだ。1904年に初演を迎えた後世に残る名曲「ヴァイオリン協奏曲作品47」を自己批判から改訂を行い1906年に決定稿を発表、そして「ポホヨラの娘作品49」を続けて作曲。その後ロンドンで1907年春に自作の指揮の約束があったシベリウスは1904年秋から着想を得ていた交響曲第3番にとりかかった。実際は完成が1907年秋になってしまったためロンドンでの初演は叶わなかった。1907年9月25日にヘルシンキで初演。翌年春にはロンドンでも自らの指揮でこの作品の披露を行っている。

モーツァルトとメンデルスゾーンの天衣無縫の才能をシベリウスは崇拝していた。又ベートーヴェンの才能には「才能は普通、しかしたゆまぬ努力で偉大な作曲家になった」と評し、若い頃は自分と同列の才能と感じていたらしい。しかし1890年第9交響曲の実演に接し打ちのめされている。同じ頃ドイツで接したワーグナーにはその壮大な才能に畏敬の念と崇拝の心を初めは持ったが、後には「大げさすぎる」ことに嫌悪を示していた。ブルックナーには第3交響曲に接した際、その精神性に深く惹かれている言葉を残している。隣国のチャイコフスキーには自己と同じ感性を感じていたようだが、後年比較して自作の強固さを強調するようになった。1907年秋にはヘルシンキでマーラーと会っている。お互いに自尊心が邪魔して会話は弾まなかったそうだが、いずれにしても両者の音楽観は相容れないものであったらしい。これらの他の作曲家へのシベリウスの意見表明を見て行くと、彼が時代と年齢とともに自己の音楽観と表現の方向性が変っていくことが見受けられる。

第3交響曲でシベリウスは大きな転換を行った。アイノラという環境でシベリウスは内なる声を聞き、様式を整理し古典的な要素を盛り込んだスタイルへと創作は新たな段階に入った。「あたかも脂肪組織や華やかな外面の交響的な美しさの部分を殺ぎ落としているような」と評されている。

作品の古典主義をまず、全体の構造の縮小化に見ることができる。第1交響曲も第2交響曲も4楽章形式であった。第3番は3楽章からなる。編成も通常2管編成でテューバは使用しない。打楽器もティンパニのみである。

チェロとコントラバスのユニゾンメロディから始まる第一楽章は、大地に響く遠くからの民族的足音のようでもあり、古典的なリズムの遊びのようでもある。牧歌的なメロディや弦楽器が織り成す16分音符の無限に続くかのような動きは、ハ長調という調性とも相まって自然界の姿そのものを描いているように思われる。第二楽章を支配している4分の6拍子の民族的な主旋律はシベリウスが頻繁に用いるスタイル、4分の6拍子と2分の3拍子の交錯を含んだメロディである。第三楽章は非常にめまぐるしくテンポ変化の指示がある。前の楽章との関連するモチーフの片鱗を織り交ぜながら、最終的にハ長調の荘厳な讃歌のフィナーレと向かっていく。「混沌からの思考の明確化」という言葉でシベリウスは最終楽章を説明している。

1865年12月8日にハメーンリンナで生まれたシベリウスは、わずか2歳で医者であった父を病気で亡くしている。母の実家に身を寄せ元来スウェーデン語を話す家系で育っていたが、10歳頃からフィンランド語系の学校に通い始めた。フィンランド語のネイティブではないということは、後世歌曲の詞の選択や夫人となるアイノ・ヤルネフェルト家との交際に影響を残している。

フィンランドはロシアの支配を受ける前はスウェーデンの統治下にあった。その名残でフィンランドの西側を中心にスウェーデン語を話す国民が集まっていた。又当時の上流階級はスウェーデン語を使用していた。

シベリウス夫人となったアイノの実家のヤルネフェルト家は、そんな中フィンランド語復興運動に積極的でフィンランド文化の独立化を推進していたリーダーでもあった。アイノの父親のアレクサンデル・ヤルネフェルトはボスニア湾沿いのスウェーデン文化が強く残るヴァーサで地方長官をしていた名将軍であった。ロシアの貴族の家系である。名士であり、フィンランド語を強く支持していた一家に対して若いシベリウスは強い劣等感を覚えていたようだ。シベリウスのこのような劣等感は逆に彼の貴族趣味に反動となって現れていると思う。金銭感覚に乏しかった生活は晩年には改善しているが、その影には賢婦アイノ夫人の強い支えがあった。

アイノラの里と呼ばれるシベリウス一家の終の棲家には筆者も2001年夏の終わりに訪れている。決して壮大な屋敷ではない、木造の質素な構えの温かな家。サウナ小屋もあり、アイノが丹精込めて作ったリンゴ園も今なお実をつけ、その木の傍らに今も眠るシベリウス夫妻。一般にフィンランド人は内向的な性格、厳格で生真面目と言われる。そんな気質がシベリウスの生涯の中に、作品の中に見事に表れていると言えよう。厳格な面持ちの中に潜んでいたシベリウスの激しい情熱と気性、そして人間的な弱さや葛藤、それらをアイノラの里の広大な自然は大きく包み込み、何事もあるがままという自然界の掟をシベリウスの中に染み込ませていったのではないか。幼少の頃夢想家で自然との戯れを好んでいたシベリウスだが、青年時代に一度は離れていた世界をアイノラの土地は思い出させてくれたのだろう。自然の中に人間が住むというフィンランド人の哲学をこの第3交響曲以降特に絶対音楽の中で色濃く見受けられる。この作品のフィナーレの讃歌もためらいがちに控えめな想いから始まり、クライマックスに至っても決して圧倒することなく、まっすぐな想いを自然への感謝を込めて歌い上げている音の言葉に筆者は強い感銘を覚える。

(特別寄稿:新田 ユリ)

サン=サーンス交響曲第3番 ハ短調「オルガン付き」 作品78

19世紀後半、パリではオーケストラや室内楽の演奏団体が増加し、一般にドイツ・イタリアに比べて遅れをとっていたといわれるフランス音楽界が活況を呈しはじめていた。しかしこうした状況もフランスの作曲家たちには殆ど利益をもたらさず、ベルリオーズに続くフランスの作曲家はなかなか現れなかった。

その中で例外的な存在であったカミュ・サン=サーンス(1835~1921)は、彼自身の数多くの楽曲の中で生涯に5曲の交響曲を書いたといわれるが、出版され現在に残されているのは3曲のみである。その最後である「第3番」は1886年(51歳)の作品で、サン=サーンスが傾倒していたリストに捧げられた。

この作品は「オルガン付き」というニックネームで親しまれているように、パイプオルガンの独奏を伴っている事が特徴のひとつである。サン=サーンスは長年パリのマドレーヌ教会のオルガニストを務め、彼の尊敬するリストと共に名手として知られていたが、オルガンを交響曲に入れるというアイディアはどこから生まれたのだろうか?

この作品が作られた時代(19世紀後半)、イギリスではフランスに先駆けて世俗のホールに大オルガンが次々に設置されていた。イギリスに刺激されたフランスでは、1878年のパリ万博に際して建設されたトロカデロ宮においてパリのコンサートホールとして初めて大オルガンが設置され、その後のオルガン音楽の在り方に大きな影響を与えた。サン=サーンスの交響曲第3番はイギリスからの委嘱で書かれたものだが、オルガン・パートについては、この楽器をめぐる歴史的なコンテクストも考える必要があるだろう。

さて楽曲についてだが、交響曲としては型破りな全2楽章から構成される。しかしよく聴くと二つの楽章はそれぞれ1部と2部に分けられていて、実際には伝統的な4楽章を含んだ曲と何ら変わりがない事がわかる。そして各楽章には循環形式が巧妙に用いられているのも特筆すべき点であり、コール・アングレ(イングリッシュホルン)が奏するもの悲しげな動機をはじめとするいくつかの循環動機によって四つの部分がしっかりと結び合わさり、作品の構築性を高めている。

【第1楽章】第1部(Adagio-Allegro moderato、ハ短調、6/8拍子)は、数小節の嘆くような性格のゆっくりした序奏に続いて、弦楽器による暗く不安げな表情の主題(ハ短調)から始まる、型通りのソナタ形式。第2部(Poco Adagio、変二長調、4/4拍子)からオルガンが加わり、その和音に支えられてヴァイオリン・ヴィオラ・チェロが美しく瞑想的な主題を提示する。この動機はクラリネット・ホルン・トロンボーンに受け継がれ、祈るような美しいコラールを弾き出す。この部分は、宗教音楽を聴くように感動的である。短いコーダを伴った三部形式。

【第2楽章】第1部(Allegro moderato、ハ短調、6/8拍子―Presto、ハ長調―Allegro moderato-Presto、変イ長調)は、弦楽器と木管楽器によるエネルギッシュな動機から始まる。Prestoの部分ではピアノの連弾や打楽器がめまぐるしく活躍する。そして二度めのPrestoで、対照的に重厚な旋律が低音楽器で導入され、相反する二つの主題が入り混じって争う。通常の交響曲ではスケルツォに相当する部分(スケルツォ形式)。第2部(Maestoso、ハ長調、6/4拍子―Allegro、ハ長調、2/2拍子)の冒頭は、オルガンの独奏による荘厳なハ長調のハーモニーである。オーケストラがフーガ風にクライマックスを築きあげていくさまは、まさにサン=サーンスが創り出した壮大な音の大建造物であろう。序奏つきの自由なソナタ形式。

日立フィルが現代に再現するサン=サーンスの「音の大建造物」。精緻な彫刻を施され、大空に聳える大伽藍となるか、はたまた…!?

(Cl 船木喜行)

←第16回
第14回→