演奏会の履歴

日立フィルで過去に取り上げた作品を演奏会別にご紹介しています。

34回定期演奏会(曲名をタップ/クリックすると解説文が表示されます)

2013年2月23日(土) すみだトリフォニーホール 指揮/武藤 英明 チェロ/ルドヴィート・カンタ

ブラームス悲劇的序曲 作品81

1879年、ブラームスは、ブレスラウ大学(現ポーランドのヴロツワフ大学)より名誉博士号を授与され、推薦人だった指揮者ショルツから、その返礼として新作を提供するよう勧められた。翌年、ブラームスは友人に宛てた手紙の中で「大学のための作曲を進めているが、もうひとつ劇的な作品も書こうと思っている。」と書いている。すなわち、この二つの作品の一方が「大学祝典序曲」であり、もう一方が今回演奏する「悲劇的序曲」である。性格の異なる相補的な関係の2作品を同時に創作するということは、ブラームスに限らず他の作曲家にもままあることであるし、ましてや、「大学祝典序曲」のような機会音楽においては、趣旨にそぐわない楽想は、いくら気に入ったものでも採用されずに蓄積され、やがてそれらは別な作品として結実する。「悲劇的序曲」は、そのようにして生まれたのであって、特に具体的なプロットや出来事なりが、下地にあるわけではないようだが、とはいえ、当時ブラームスの身辺には、悲しむべき出来事が立て続けに起こっている。
名誉博士号授与の少し前、恩師シューマンの遺児フェーリクスが25歳の若さで早世している。また、その翌年早々には親友で画家のフォイアーバッハの訃報も受け取った。さらには、20数年来の親交のあったヴァイオリニストのヨアヒムとの絶交があった。そのころヨアヒムには離婚騒動が持ち上がり、裁判所の調停の場で、ブラームスがヨアヒムの妻にあてた手紙が提出され、そこにはヨアヒムを非難する言葉が書かれていたのである。そんなこんなで、ブラームスは、出版社のジムロックに宛てて「孤独な気持をもって悲劇的序曲の作曲を誓う」と言及している。
作品は、ブラームスお得意の少ない主題を縦横に展開する技術を駆使し、密度の高い緊張感あふれる音楽となっている。形式としては一応ソナタ形式となっているが、展開部に入る前に、第1主題を先に再現してしまうという通常とは異なる順序で曲は進む。この試みは、実は初めてではなく、交響曲第1番の終楽章主部でもほぼ同じ構成をとっているのである。ただし、一方は輝かしい勝利を導き、他方は文字通り「悲劇的」な結末である。
ブラームスは、自分の作曲の過程を人に知られるのを嫌がり、スケッチや習作の類は、すべてその都度廃棄してきた。しかし、1870年前後のスケッチ帳の一部が、まさに例外ともいえる存在として、ウィーンの楽友協会に保管されている。そしてそこには「悲劇的序曲」の一節が数十小節にわたってのこされているのだ。そこで、そのころのブラームスの身辺をさぐってみると、当人にとっては「悲劇」ともいうべき失恋があった。当時シューマンの娘ユーリエに、熱く想いを寄せていたにも関わらず、母親のクララがとある伯爵を紹介して婚約させてしまったのである。しかし、想いを寄せたといっても、彼は、ユーリエ本人にもそしてクララにすら、その想いを伝えることもせず、というか、その素振りすらみせなかったというから、母娘の二人には責められる筋合いは全くない。当時は憤懣やるかたない気持ちをぶつけて「アルトラプソディー」*注)が作曲されたというが、それでもおさまらず、10年もたってからの、この「悲劇的序曲」なのだろうか?基本は秘密主義者であるので、本当のところは、もちろんわからない。
(Perc. 桑原 崇)

*注)正式な名称は『ゲーテの「冬のハルツの旅」からの断章』アルト独唱と男声合唱および管弦楽のために1869年に作曲された。アルトに焦点が置かれていることからこのような通称で呼ばれている。

ドヴォルザークチェロ協奏曲 ロ短調 作品104

1841年プラハ郊外で、肉屋の長男として生まれたアントニン・ドヴォルザークは6歳で手にしたヴァイオリンにより音楽の才能を開花させます。当時肉屋の技術を得るのに必須だったドイツ語の教師が傍らで音楽の指導も施し、やがて家業を継がせようとした両親の反対を押し切りプラハのオルガン学校に進学。卒業後はヴィオラ奏者としてホテルやレストランで演奏し、1862年新たに設立される国民劇場のオーケストラでヴィオラ奏者の職を得ます。更に1865年には金属細工商のチェルマーク家で2人の娘の音楽教師を始めます。姉のヨゼフィーネは女優で、ドヴォルザークは恋心を抱きますが残念ながら失恋。
 え?失恋の話はどうでもいい?まぁまぁそう言わずに。
さて、作曲家としてのドヴォルザークは既にオルガン学校時代から作品を作り始めていましたが、1871年に作曲に専念。1873年に発表した賛歌「白山の後継者たち」の成功で注目を集めます。またその初演の際にヨゼフィーネの妹アンナと再会し、結婚します。1875年には作曲の力量が認められ奨学金を入手、以降毎年受給更新のために新曲を発表していたドヴォルザークですが、1877年に提出した「モラビア二重唱曲集」が審査員を務めていたブラームスの目に留まります。才能を高く評価したブラームスとドヴォルザークは生涯に亘る交流を始めます。「ドヴォルザークが書き損じてゴミ箱に捨てた楽譜から、私は交響曲が1曲書ける」とブラームスが羨んだとか。そんなドヴォルザークはメロディーメーカーの才能を遺憾なく発揮し名曲を生み続け、チェコでは国民的名声を得ます。やがてその名声がアメリカにも届きニューヨーク・ナショナル音楽院の院長として1892年渡米します。1895年ホームシックから職を辞しアメリカを離れるまでのわずか3年の間に、有名な交響曲第9番「新世界から」、弦楽四重奏曲「アメリカ」、そして本日演奏する「チェロ協奏曲」などの名曲を書いたのです。
さて、このチェロ協奏曲はアメリカ滞在中に同郷のチェリスト、ハヌシュ・ヴィハンの依頼で書かれました。ドヴォルザークはこの友人に作品を献呈しています。ドヴォルザークが生きていたロマン派の時代、協奏曲はリストやパガニーニのようにピアノやヴァイオリンの名人による演奏技巧を引き立たせる目的で書かれたものが多く、チェロ協奏曲は楽器の特性上、音域がオーケストラに埋もれてしまいがちで、ソロが目立たないという難点があったのです。今日でも演奏されている作品はシューマン(1850年)やサン=サーンス(1873年)、ラロ(1876年)の作品など、あまり多くありません。チャイコフスキーはチェロと管弦楽のための「ロココ風の主題による変奏曲」(1877年)を作曲していますが、オーケストラを古典的な小編成にすることでこの問題を回避しています。
ところがドヴォルザークは、木管楽器や独奏ヴァイオリンとソロとを掛け合わせることでチェロを引き立たせると同時に、チェロの高音域で美しいメロディーを奏でさせることでこの難点を克服します。フル・オーケストラによる重厚でシンフォニックな伴奏や、ボヘミアの民族的なリズムもアクセントとなってチェロとオーケストラ双方が映える曲に仕上げています。チェロ協奏曲で最も有名な作品であるだけでなく、かのブラームスが「もし人間がこのような作品を書けることに気づいていれば、私がとっくに書いていただろう」と感嘆するほど、多くの作曲家に大きな影響を与えた作品です。

第1楽章はクラリネットが静かに始めたメロディーが徐々に大きなうねりとなり、ホルンが美しい第2主題で応えた後、チェロが最初の旋律を堂々と奏でます。オーケストラとの掛け合いの中で、カデンツァこそないものの難しい技巧が散りばめられています。
第2楽章はのどかなメロディーを木管に続いてチェロが演奏。突然オーケストラの強奏で場面転換すると、チェロが新しい旋律を演奏します。実はこのメロディー、ドヴォルザークの歌曲「ひとりにさせて」の一節なのです。作曲を始めた1894年、妻の姉、つまりかつての想い人であるヨゼフィーネが病に伏したとアメリカに連絡が届きます。彼女のことを気遣いながら、彼女が好きだった自分の歌曲をこの曲の中に書き加えたのでした。最後は、病人への想いと自らの望郷の気持ちが故国に届いてほしいと祈るように、静かに終わります。
第3楽章はボヘミアの民俗音楽のリズムに乗ってテーマが演奏されると、ロンド形式(同じテーマが違う曲を挟みながら繰り返し演奏される形式)で音楽が進行します。チェロが技巧的な旋律を演奏しながら盛り上がって大団円。ドヴォルザークは作曲を一旦終えて1895年4月チェコに帰国します。ところがアメリカに戻ってからわずか1ヶ月、ヨゼフィーネは息を引き取ってしまうのです。ドヴォルザークは未発表だったこの作品の第3楽章の最後の部分(コーダ)を大幅に書き加えます。チェロに呼応するようにヴァイオリンのソロが「一人にさせて」の冒頭のメロディーを歌います。つまりここにはドヴォルザークの初恋への惜別の念が書き込まれているのです。
依頼主のヴィハンは「カデンツァを入れたいので書き加えられた第3楽章の最後の部分をカットしてほしい」と依頼しますが、当然ドヴォルザークは「一音たりとも変えてはいけない」と一蹴。結局1896年3月、ロンドンにて作曲者の指揮、イギリス人レオ・スターンの独奏で初演され、その3週間後にはプラハ初演、1897年にはニューヨーク初演がスターンにより行われるなど各地で好評を得ました。(ヴィハンが演奏するのは1899年になってからで、以降この曲の評価をさらに高めることに貢献しています。)そして今日までチェロ協奏曲の「王様」として、世界中のチェリストが憧れる曲のひとつとなっているのです。
(Vc.中村 晋吾)

ブラームス交響曲第1番 ハ短調 作品68

1853年、20歳になったばかりの青年音楽家ブラームスは、ドイツ音楽界の重鎮シューマンの自宅を訪れ、自作のピアノソナタを弾いてみせた。即座に、ブラームスの非凡な才能を見抜いたシューマンは大絶賛する。それだけでは終わらず、音楽雑誌に称賛の記事を掲載し、楽譜出版社を紹介するなど、その後も強力に後押しを続けた。またたくまに音楽界の中心に躍り出たブラームスを、周囲は、ベートーヴェンの再来とまでもてはやし、そして、いつしか交響曲の作曲を期待するようになる。

ブラームスが、交響曲に取り組もうとしたのは1855年ころのようだが、周囲の期待ばかり先行する中、オーケストラの扱いすら経験のなかったブラームスには、自身が満足する作品を完成させることはできなかった。ブラームスが最初の交響曲の作曲に20年以上かけたと、よく言われるのだが、それはこのころを着手の起点としている話である。しかし、そのときの構想が、現在の第1交響曲にどう継承されたのか、あるいはまったく破棄されたのか、一切不明である。正確を期すならば、第1楽章のアレグロ主部を完成させた1862年を着手の年とするのが正しいのであろうが、そうだとしても全曲の完成はこの14年後である。第1楽章を作ってはみたが、そのあと、またも交響曲の作曲を中断してしまう。ブラームスの慎重な態度もあったろうが、演奏旅行はじめ、他の音楽活動があまりに多忙となってきたため、交響曲の創作に落ち着いて取り組めるような、まとまった時間がとれなくなってきたからである。
しかし、1874年になるとついにブラームスは、交響曲の作曲を創作活動の中心に据えるようになる。これは、前年の「ハイドンの主題による変奏曲」の成功がひとつのきっかけであるように思える。まず、オーケストラの扱いに自信を持ったこと、そして、避暑地であるバイエルンのシュタルンベルガー湖畔滞在時に仕上げられたということも重要である。

ブラームスは、ひと夏を避暑地で過ごしてみて、いかに平時が多忙でも、夏場に休暇をとり避暑地に籠って創作活動に没頭すれば、大作を完成させることができるという見通しを得たのである。かくして第1交響曲は、チューリッヒ湖畔のリュシュリコン、ハイデルベルク近郊のツィーゲルハウゼン、そしてバルト海に浮かぶリューゲン島と3か所の避暑地をわたりあるき、1876年にようやく完成をみた。

第1楽章 この作品のモニュメンタルな性格を象徴する圧倒的な序奏がティンパニの力強い拍動に支えられて聴き手に迫る。序奏の不安定な動機群は、主部に入るとあっという間に巨大な第一主題として組み上げられる。後半闘争的な音楽はさらに高潮するが、クライマックスの頂点で突然音楽は失速する。コーダはテンポも落とし希望の光をつかもうとするかのように長調に転じる。
第2楽章 緩徐楽章ではあるが、単に優美なだけではない、もっと複雑な感情の襞が、渋みをもつ書法で表現される。中間部では、オーボエとクラリネットによるソロの連繋が印象深い。後半は、ヴァイオリンの独奏が登場し、ホルンの旋律に装飾的なオブリガードで彩りつつ、最後は浄化するように終わる。
第3楽章 ベートーヴェンならば、躍動的なスケルツォがくるところだが、新しい試みとして、スケルツァンドな雰囲気は保ちつつも、曲想はより穏やかで、一種の間奏曲のような楽章となっている。クラリネットによる柔和な旋律で開始し、木管楽器中心に軽やかに進む。トリオはいくぶん活気を帯び、そのあと、冒頭の動機がもどると、ふと第4楽章の主要主題が浮かび上がる。次楽章の予告があるというのは、きわめて斬新である。
第4楽章 嵐の前触れのような不穏な序奏ではじまる。音楽はさらに動揺し暗雲垂れ込め稲妻が走り、まさに嵐の到来か、とその瞬間、突然霧が晴れたように視界がひろがり、ホルンの雄渾な旋律が響き渡る。そして頭上より降り注ぐフルート、遠方よりおごそかに響くトロンボーンのコラールが続く。劇的かつ壮大な序奏に導かれ、満を持して登場するのは、この上もなく朗らかで歓びに満ちた有名な第1主題である。第1楽章と同じように、序奏で提示されたいくつかの動機が巧妙に変形されて、主部の主題を形作っている。コーダに入ると、序奏にあらわれたコラールが最強奏で回帰し、そして歓喜と祝福の奔流が輝かしい頂点を形作る。

カールスルーエでの初演は成功をおさめ、ドイツ・オーストリアの各地、さらにロンドンでも、つぎつぎと初演された。指揮者のハンス・フォン・ビューローが「ベートーヴェンの第10交響曲」と述べたのは有名だが、ブラームス自身は、この呼び方はあまり気に入らなかったようだ。もちろん最大級の賛辞のつもりであるのは明白なはずだが、少なくとも複雑な心境であったろう。ベートーヴェンの第9交響曲初演から経過すること50年分の音楽体験を共有する聴衆に、同時代の交響曲としてあるべき新しい姿を提示できなければ、ベートーヴェンの再来ではなく、ベートーヴェンの単なる亜流である。20年と言われる苦吟の末、ようやく肩の荷を降ろした気持ちになったのであろう、残り3曲の交響曲については、完成に10年とかけていない。これらの交響曲は、いずれも、主題の緻密な展開によって構築されている点、ベートーヴェンの諸作品を思わせるが、それ以上に、ロマン派の美質を備えており、まさにドイツの森を想起させる。19世紀も後半を過ぎ、交響曲の方向性を見失いがちだったドイツ音楽界に、しっかりと楔を打ち込んだ交響曲群の記念すべき幕開けがこの第1番である。
(Perc. 桑原 崇)

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