演奏会の履歴

日立フィルで過去に取り上げた作品を演奏会別にご紹介しています。

37定期演奏会(曲名をタップ/クリックすると解説文が表示されます)

2014年7月20日(日) ミューザ川崎シンフォニーホール 指揮/武藤 英明

ヴェルディ歌劇「ナブッコ」序曲/歌劇「アイーダ」第2幕第2場よりグランフィナーレ

 ワールドカップの決勝が終わったばかりで、世界中まだ熱狂覚めやらぬところですが、今回の選曲はサッカーを意識したつもりはないものの(元来このオーケストラは作曲者生誕(没後)何周年とかドラマや映画のテーマソングになったとか、そういう世間の流行にあまりリンクしない選曲をする傾向にあります)、結果的にイタリアと日本のサッカーの試合でよく聴く応援歌(チャント)を演奏することになりました。「ああ、この曲か」と思われる方も多いのではないでしょうか。
 ジュゼッペ・ヴェルディは201年前の1813年に生まれました。くしくもこの年はドイツで同じオペラの世界に偉大な足跡を残したヴァーグナーも生まれています。偉大な作曲家は皆そうですが幼くして才能を発揮して、若きヴェルディも24歳でミラノに進出し最初のオペラを作曲します。しかし彼はこの頃不幸が続き、1838年に1歳の長男が、1839年には妻が相次いで亡くなり家族を失います。2作目のオペラも不評で作曲をやめようかと思っていた矢先に、出会った台本が「ナブッコ」でした。
 旧約聖書にも出てくる「ナブッコ」は、日本の世界史の授業では「ネブカドネザル2世」(在位紀元前604年~562年)と表記される新バビロニア王国の王様です。青を基調にした装飾豊かな「イシュタル門」を残したこと、更にはエルサレムにあったユダ王国を攻めて大量のユダヤ人をバビロンに連れ帰った「バビロン捕囚」(紀元前597年)を行ったことで知られています。
 オペラは、ナブッコ王がユダ王国を攻め、「バビロン捕囚」を行う一方、その舞台裏で王女の一人が次の王位を求めて暗躍するというお話で、最後は信仰に目覚めたナブッコ王が復権して捕囚を解放するというハッピーエンドですが、もちろん歴史の授業で習ったこととは違います(実際には紀元前539年にペルシャの王様が新バビロニア王国を滅亡させることで捕囚は解放されるし、新バビロニア王がユダヤ教に改宗することもありません)。
 ヴェルディは台本の中で、捕囚が故郷を想って歌う《行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って Va, pensiero, sull'ali dorate》が気に入り、再び作曲する意欲を取り戻したと言われています。
 そして、この曲を柱に1841年秋に完成したオペラは大好評、オペラ座からの帰り道で聴衆達が《行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って》を歌いながら帰ったという話が有名です。この歌は、当時オーストリアに支配されていたイタリア人に独立回復と故国統一を強く意識させ、この後イタリアの「第二の国歌」と言われるほどの名声を得ます。イタリア代表のチャントとして歌われますので次回イタリアの試合を見る際にはチャントにも耳を澄ませてみてはいかがでしょうか。
 本日演奏する序曲は、オペラの主題を集めたものですが、もちろんその有名なメロディーも含まれています。
 さて、「ナブッコ」で再起を果たした後のヴェルディ、「マクベス」「椿姫」「リゴレット」などの作品が成功して作曲家としての地位は確立していき、また「ナブッコ」の初演でソプラノを歌ったジュゼッピーナ・ソトレッポーニと1859年に再婚して運勢上向きになったのですが、好事魔多し。その後「運命の力」や「ドン・カルロ」の初演の失敗、1868年の父の死などとまた不幸が続き、落ち込んだヴェルディは一時農村に引きこもってしまいました。世間は才能を惜しみあの手この手で説得を試みるのですが、その中でこの失意の作曲家にもう一度オペラを書いてみようと思わせた台本が「アイーダ」なのです。
 エチオピア軍とエジプトの戦いを舞台に、エジプトの王子と、身分を隠してエジプト王女の奴隷になっているエチオピアの王女が、敵同士ながら恋に落ちて…というストーリーの作品は1870年に完成、その翌年にスエズ運河開通に沸く(運河は1869年に完成)カイロで初演されました。1872年にはミラノ・スカラ座でもカイロに続き大好評で迎えられ、いまや世界で最も有名なオペラのひとつとなっています。
 その後のヴェルディは不評にもめげることなく「レクイエム」や「ファルスタッフ」などの名曲を生み出した他、慈善事業にも積極的に取り組み、引退した音楽家たちが余生を送る「憩いの家」を建設するなどの社会貢献をして、1901年にミラノで人生の幕を下ろすのです。
 本日演奏するのは第2幕でエジプト軍が勝利の凱旋をする場面の音楽です。トランペットのファンファーレと弦楽器(オペラでは合唱も入ります)の掛け合いの後に出てくる有名なメロディーがサッカー日本代表の応援歌としても使われています。これはファンファーレ専用のトランペットで演奏されます。本日は6本のファンファーレ・トランペットが見られますのでお楽しみに。 蛇足ながら、アイーダトランペットの伴奏をしているバンダ(金管アンサンブル)の中で、ステージに向かって右端に縦置きのトロンボーンがあります。これは「チンバッソ」という(ロータリー)バルブで音を変える楽器です。音域はチューバと同じなのですが、ヴェルディとプッチーニがこの楽器を指定しています。
 凱旋行進の後に急にテンポが速くなりますが、オペラではここからバレエの場面になります。舞台で美しいバレエが繰り広げられる中、ピットにいるオーケストラでは木管(特にピッコロとオーボエ)が大車輪の活躍をしております。本日は演奏会形式ですから舞台上で演奏するので、とくとご覧下さい。最初のファンファーレがあらためて演奏された後コーダとなりますが、本日は第2幕フィナーレの最後数小節を追加し、オーケストラ全体で有名なメロディーを演奏して終わります。
 暫くサッカー漬けだった方の中には思わず歌いたくなる方もいらっしゃるかもしれませんが、恐れ入りますがホール内ではなく、スタジアムかご自宅か、せめて帰り道で歌って戴けます様、くれぐれも宜しくお願い申し上げます。
(中村 晋吾)

ドヴォルジャーク交響曲第8番ト長調 作品88

 チェコを代表する作曲家ドヴォルジャークの作品群の中でも最もチェコ的な作品と言えるのが、交響曲第8番ト長調です。ヨーロッパの中心に位置するチェコは、常に歴史の動乱に晒されつつ、独自の文化を育んで来ました。19世紀、チェコはスメタナとドヴォルジャークという二大作曲家を輩出しています。ドヴォルジャークが作曲した数多くの名曲の中でも、この交響曲第8番は、全曲を通じて民族的な歌と踊りの雰囲気にあふれ、自然豊かなボヘミアの光景がありありと目の前に現れるような明るい牧歌的な曲想で、交響曲第9番「新世界より」に並んで人気がある作品です。
 この曲は1889年の8月から11月にかけて作曲されました。ドヴォルジャークは48歳、仕事や生活が充実し絶好調にあった時期の作品です。初演は翌1890年2月にプラハでドヴォルジャーク自身の指揮で行われました。
 ドヴォルジャークの交響曲の魅力について語るとしたら、私は、民族的で魅力的なメロディ・リズムに加えて、その音色感と、疾走感を挙げます。 音色感については、管弦楽法、つまり楽器の選択に良く現れています。第1楽章展開部のクライマックス、トランペットが序奏のテーマを高らかに歌い上げる箇所では、他の作曲家であればスコアを音で埋め尽くしそうな曲想ながら、ドヴォルジャークは敢えて木管楽器を全て休みとし、弦楽器と金管楽器の音色を際立たせています。さらには、第1楽章冒頭近く、フルートのD音を引き継いで吹き伸ばすのはピッコロです。全曲を通じてここだけに使われるピッコロの中音域の軽い音色は絶妙な効果です。また第1楽章の再現部に出てくるコールアングレは、わずか2小節の出番ながら、ボヘミアの雰囲気を見事に表現しています。このように、特殊な楽器をここぞというところにちょっとだけ使うという贅沢は、交響曲第7番、第9番「新世界より」をはじめ、他の曲においても見られます。疾走感が良く現れているのは、第1楽章の展開部。つぎつぎと景色を変えながら軽快に流れる音楽は、まるで観光列車でボヘミアの街や自然の風景の中を駆け抜けているように感じられます。そうした箇所は作品中にたびたび登場します。ドヴォルジャークは大の鉄道ファンで、プラハのジトナー通りの自宅の近くには鉄道駅があり、列車に乗ることはもちろん、ここで蒸気機関車を眺めるのが毎日の楽しみだったと言われています。音楽の疾走感もそこから来ているのではないかと思います。
 ところで、ドヴォルジャークの主要な作品の殆どは、ドイツ・ベルリンの音楽出版社、ジムロックから出版されています。ジムロックは18世紀の末に設立され、モーツァルトの「魔笛」を始めとし、ハイドンやベートーヴェン、シューマン、メンデルスゾーンなど、大作曲家の作品をリアルタイムに世に送り出した老舗・名門の出版社です。19世紀後半にはブラームスの作品の殆どを同社が出版しています。ドヴォルジャークをジムロックに推薦紹介したのはまさにブラームスでした。ドヴォルジャークとジムロックは、作曲の条件や報酬を巡って次第に折り合いが悪くなり、ドヴォルジャークに小曲を書かせたがっていたジムロックはこの交響曲第8番に至って「大規模な作品は売れない」と言ってわずか1,000マルク(50~60万円)という低価格を提示したため、ドヴォルジャークはその10倍の10,000マルクを提示してジムロックに引き下がらせました。なおジムロックは、ブラームスの場合は交響曲1曲15,000マルクと設定していましたので、その差は歴然です。
 さて一方、ドヴォルジャークは数度のイギリス訪問を重ねてイギリスで名声が高まり、ロンドンの出版社ノヴェロとも親交を深めていたこともあって、ジムロックから鞍替えし、ノヴェロから出版しました。曲の内容とは無関係なこの逸話により、この曲は「イギリス交響曲」と呼ばれることがあります。余談ながら、ジムロックは2002年にイギリスの音楽出版最大手ブージー&ホークスに買収され、いまやこの曲を「イギリス交響曲」と呼ぶことには、ますます意味がなくなりました。
 さて、この逸話をさらに掘り下げると、この曲に込められたチェコの民族に対するドヴォルジャークの想いを知ることができます。ドヴォルジャークはジムロックに対して、お金の面以外にも、書きたい曲を書かせてもらえない、作品番号を勝手に変えてしまう、などいくつもの不満を抱えていました。しかし、おそらく心情的に決定的だったと思われるのは、交響曲第7番を出版した際のできごとです。その頃からドヴォルジャークは、チェコの民族のための作品を書くことが自らの使命との考えを強く持つようになっており、出版譜においてもそのことを示そうとしました。すなわち、交響曲のスコアの表紙にはドイツ語と並んでチェコ語でタイトルを印刷し、自分の名前もドイツ語の “Anton” ではなく、チェコ語 ”Antonin” を想起できるよう ”Ant.” と記載することにこだわったのです。その理由についてドヴォルジャークは次のように述べています。
  芸術を育み表現できることのできる国家はたとえそれが小国であろうとも、けっして沈下することのないよう希求しよう(参考出典:内藤久子著 ドヴォルジャーク 音楽之友社)
 しかし、ジムロックは、ドヴォルジャークの要求を無視し、交響曲第7番の表紙にはドイツ語の“Anton” を記載したのみでした。このことこそが、交響曲第8番をジムロックではなくノヴェロから出版した最大の要因であったように、私には思えます。ドヴォルジャークがチェコの民族の文化への想いを込めて作曲した最もチェコ的な作品、交響曲第8番ト長調。1892年にノヴェロから出版されたその初版譜の表紙には、チェコ語により、“Antonin Dvorak” の名前が記されています。
第1楽章 Allegro con brio
 曲はト短調の序奏で開始されます。低弦のピッツィカートに乗せて民謡風の旋律を奏でるのはチェロとホルンとクラリネット、ファゴット。この独特な深い音色が、スラブの音楽であることを印象づけます。弦のトレモロの中、フルートが明るく優しいト長調の主題を奏でます。跳躍するリズムを伴うこの主題は、この交響曲の明るい雰囲気を象徴し、続く楽章に幾度も現れます。

第2楽章 Adagio
弦楽器で静かにゆったりと開始されます。鳥のさえずりのようなフルート、続くクラリネットの深い二重奏が印象的です。全体に暗く沈んだ雰囲気で進行しますが、やがて、民族楽器を思わせる軽やかな下降音形に乗せて優しいメロディが奏でられ、ボヘミアの平和な村の光景のようなヴァイオリンのソロも聞こえます。

第3楽章 Allegretto grazioso
弦楽器の憂いと哀愁を帯びた旋律がこよなく美しい舞曲風の音楽です。中間部では、ドヴォルジャーク自身の喜歌劇「がんこ者たち」のアリアが転用され、のどかな雰囲気となります。前半部が繰り返された後、木管楽器によるおどけた音楽となり、軽やかに曲を終え、終楽章へと続きます。

第4楽章 Allegro ma non troppo
トランペットの明るいファンファーレから開始されます。続いてチェロが朗々と主題を奏で、さまざまに変奏されて行きます。終楽章に変奏曲を持つスタイルは、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」や、ブラームスの交響曲第4番を連想させます。賑やかな全奏におけるホルンの強烈なトリル、フルートソロの鮮やかなパッセージ、オーボエとクラリネットが奏でる民族的な第2主題、懐かしく静かなテーマの再現など、見せ場が続いた後、さらにテンポを上げて賑やかな全奏となり、明るい気分で曲を終えます。
(庄子 聡)

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