演奏会の履歴

日立フィルで過去に取り上げた作品を演奏会別にご紹介しています。

第39回定期演奏会(曲名をタップ/クリックすると解説文が表示されます)

2015年8月30日(日) ミューザ川崎シンフォニーホール 指揮/新田 ユリ ヴァイオリン/毛利文香

ニールセン:ヘリオス序曲

 デンマークのカール・ニルセン、フィンランドのジャン・シベリウスが今年そろって150歳を迎えている。二人の作品が演奏される機会が世界的に増えている今年、日立フィルもこの第39回定期演奏会前半に二人の作品を取り上げた。
 北欧五か国、スカンジナヴィアの国々などという表現がされる。スカンジナヴィアはその名前の半島にある、ノルウェー、スウェーデン、そしてその南に位置するデンマークの3つの国。北欧というカテゴリーには、そこに加えてフィンランドとアイスランドが入る。ヨーロッパ大陸と深く繋がりを持つデンマーク、地理的にはロシアの隣に位置して言語も社会体制もスカンジナヴィアとは異なるフィンランド。それぞれを祖国とする同い年の作曲家たちは音楽的にも人間的にも違いが大きい。
 ニルセンはデンマークフューン島に生まれている。12人兄弟の7番目。実家は農家の仕事を手伝い、父はペンキ屋として働きながら村の楽師としても活躍していた。楽才があり多くの楽器を演奏できた。カールも子供の頃から軍楽隊でコルネットを演奏していた。シベリウスは両親ともスウェーデン系フィンランド人。つまり母語はスウェーデン語の家だった。
父は医者。しかしジャンが2歳の頃、病に倒れた。ちなみにシベリウスのファーストネームのジャンはペンネーム。幼いころは正式な名前の幼名である「ヤンネ」と呼ばれていた。ジャンはフランス風の名前で船乗りの伯父から影響を受け、その名刺にあった名前を借用している。
 二人が生まれたころフィンランドはロシアの自治大公国、デンマークはニルセンが生まれる前年に起きた第二次シュレースヴィヒ=ホルスタイン戦争に敗北したことで国土の40パーセントを失い国家全体が厳しい状況だった。その国家の状況と個人的な生活環境の違いに加え、ニルセンは人好きのする性格で自己肯定的な側面が強い若者だったこと、シベリウスはシャイで内省的な性格が強かったこともあり、作品のトーンが異なる。
 しかし晩年ニルセンが書いた作品には、影の多いものもあり、神秘的な作風に対して「シベリウス風だ」という評価がされることには神経をとがらせていたそうだ。二人は1919年、コペンハーゲンで開催された「北欧音楽の日」のセレモニーの後、ニルセンの自宅に招かれる形で夕食を共にしている。今回取り上げた2曲は、奇しくも作曲の時期は近い。二人とも交響曲第2番を表した後の曲となっている。
 1890年にかけてドイツ、オーストリア、フランスなど音楽の都と言われる国々を、師匠ニルス・ゲーゼの紹介を得て廻ったニルセンは、「自分は、ブラームスの作曲姿勢に傾倒する」という発言を遺している。もちろんワーグナーの洗礼も強く受けた。しかし「自分の本分は違う」ということをデンマークに帰国する前に意識している。絶対音楽、交響曲の作曲に重点を置いたものの、実際の作曲活動はそれだけにはとどまらず、多くの親しみやすい声楽曲、ピアノ曲、そしてオペラ2作、劇音楽も17曲遺し、また弦楽四重奏をはじめとした室内楽も知られている。交響曲6曲は前半4曲の外交的な作品と、後半2曲の内省的な作品とに大きく分けられる。そこにはニルセンの人生の歴史と、デンマークの対外的な歴史の両方の側面が影響している。
 この「ヘリオス」序曲を記した1903年は、交響曲第2番、歌劇「サウルとダビデ」を発表した次の年にあたる。ニルセンより2歳年上の妻アンネ=マリーは彫刻家として活躍していた。1903年彼女は奨学金を得てギリシャに古代ギリシャの美術を学ぶ機会を得た。同時に夫カールも出版社ヴィルヘルム・ハンセン社と出版契約を結んだところだった。確実に作曲への報酬を得られることになり、カールも妻に同行しアテネに滞在した。ギリシャ神話の太陽神ヘリオス。太陽の光の環を背負い東より西へ天かける姿が思い浮かぶ。
 ニルセンは文字通りこの地で作曲の火が付いたように書き始めたようだ。3月10日に着手し、3月27日には彼の友であり弟子のひとりに「日の出の長い序奏は書き終えた」と手紙を送っている。作品は4月23日に完成。初演は1903年10月8日、友人である作曲家・指揮者のヨーハン・スヴェンセン指揮、デンマーク王立管弦楽団の演奏によりコペンハーゲンで行われた。実はこの作品は1903年の1年に書かれた唯一の管弦楽作品である。
 この時期作曲活動が少し滞っていたニルセン。第2番の交響曲の時期からこの辺りを、ニルセンの「精神的な時代」と研究者は名付けている。1891年から始まった芸術家同士の結婚。3人の子供の養育など現実的に厳しい環境を過ごしていた。不在が多い妻、オーケストラの仕事と作曲活動の兼任の夫カール自身が子育てを担うことも多かった。その境遇に対し多くの葛藤を持っていたニルセン。そんな時代を経た二人だったが、この「ヘリオス」を書き上げた頃から以後長きにわたり務めてくれる家政婦を雇っている。  「ヘリオス」の音楽的な区分けに沿って、ニルセンはタイトルをつけて表現している。
 初演の反応は熱心な拍手があったと報じられる一方で、批評家たちは様々な言葉でこの作品を記していた。「難解な音や形式を使っていない」「管弦楽法の面白さ」などを指摘し、知的な刺激があるものの簡単に全容を理解できるものではないというあいまいさの漂う批評が紙面に掲載されたようだ。とはいっても初演時より度々ニルセン自身の指揮でも演奏された。最後は1930年2月12日にスウェーデン・エーテボリでの公演で取り上げた。ヘルシンキ、ストックホルム、ベルリンなどの海外の都市でも多く指揮している。しかし、ニルセンが首席指揮者を務めていたコペンハーゲン音楽協会のオーケストラでは、その任期(1915年~1927年)にかけて、一度も「ヘリオス」の指揮をしなかった。
(新田 ユリ)

シベリウス:ヴァイオリン協奏曲

 ニルセン同様、若いころヴァイオリンを音楽院で学んだシベリウス。ウィーンフィルの入団試験には落ちたという説もあり、またステージに上がると「あがり症」のため力を発揮することができなかった、という研究者の報告もあり、シベリウスとヴァイオリンの縁は幼いころからのあこがれに満ちた想いが支配していた幸せな時間で終わっている。以後は音を綴るペンが命の元となった。一方のニルセンは音楽院でヴァイオリンを学んだあと自ら室内楽団の奏者として、また王立劇場管弦楽団のヴァイオリン奏者として演奏活動も兼任していた。そのニルセンもシベリウス同様1曲のヴァイオリン協奏曲しか遺していない。
 シベリウスのヴァイオリン協奏曲への着手は、交響曲第2番を書き上げたころ。この時期のシベリウスは人生の一大転機を迎えていた。生活環境の変化である。ニルセンとほぼ同じころベルリン、ウィーンで留学生活を送り、帰国して1892年に結婚してからはヘルシンキに居を構えていた。同世代の芸術家と集い夜ごとの芸術談義に明け暮れ、飲酒や喫煙の日々が20世紀に入る時期まで続けられていた。シベリウスの身体は少しずつ蝕まれ1900年よりパトロンとしてシベリウスを支えたカルぺラン男爵や妻アイノが心配する状況となっていた。疲労は作曲家として大切な耳に及び、環境を変える時期を悟らせた。
 1900年に三女キルスティを病気で失ったシベリウス夫妻の悲しみは、イタリアの旅の道となり交響曲第2番が生まれ、そして1902年の後半は多くの歌曲も誕生した。11月15日にはエン・サガの改定稿をもってベルリンフィルを指揮する機会があった。世界に名高いオーケストラを自ら指揮し自作を披露できたことは、シベリウスに大きな自信と刺激を与えた。このベルリン公演の折に、その後のヴァイオリン協奏曲で因縁のソリストとなるヴィリー・ブルメスターと会っている。もっともブルメスターは以前からフィンランドのロベルト・カヤヌスが率いるオーケストラのリーダーとして1895年までヘルシンキで活動をしていた。
 1903年に入りシベリウスを案じるカルぺラン男爵とアイノ夫人はシベリウスの転居に本腰を入れ、ヤルヴェンパーの地に場所を見つけた。大通りから少し離れてはいたものの抜群の環境にシベリウス自身も喜んだ。そんな中1903年の秋にヴァイオリン協奏曲を披露することを公言していたが、それは実現できなかった。そこには「シンボリズム」の影響があった。時代の波もあり、シベリウスは「シンボリズム」に心ひかれた。その結果義兄アルヴィド・ヤルネフェルトの戯曲「クオレマ(死)」の音楽を作曲することとなった。「悲しきワルツ」の原曲を含む劇付随音楽である。
 そしてヴァイオリン協奏曲は先のブルメスターに多くの助言を得ながら作曲の筆をすすめ1904年はじめに書き上げ3月にブルメスターの演奏により初演を予定していた。ところが、実際は2月8日の初演となり、初演のソリストは、ヴィクトール・ノヴァチェクとなった。その理由は経済的なものである。ヤルヴェンパーの新居への支払いが迫っていた。シベリウスはどうしても初演を早めて報酬を得る必要があった。ノヴァチェクは若い教師。残念ながら協奏曲の初稿版を弾きこなす技量は持ち合わせていなかったようだ。初演の第2楽章は好評であったものの、あとの楽章については「まったく楽しめないものだった」という痛烈な批評を掲載する評論家もいた。
 この状況を経てシベリウスはすぐに改訂に着手する。しかしブルメスターは手を差し伸べた。その年の秋に自分が今一度演奏しようと申し出た。しかしシベリウスは断り改定稿の作成に集中した。1905年10月19日、リヒャルト・シュトラウスの指揮によりベルリンで演奏された改定稿の初演は、ソリストにベルリンのコンサートマスター、カレル・ハーリルを迎えて行われた。この機会でも結局ブルメスターと予定を合わせることができなかった。以後気分を害したブルメスターは、しばらくシベリウスの作品を演奏することはなかったと言われている。
 ヴァイオリン協奏曲には、管弦楽版の初期稿と、それ以前に作られていたピアノ伴奏版の初稿版が存在する。1904年の管弦楽版初期稿と1905年の改定稿の大きな違いは、第1楽章。初期稿にはソリストによるカデンツァが2つ置かれている。ほかに改定稿では削除された部分もあり、全体で改定稿の方が41小節短くなっている。現在演奏されるカデンツァが初めにあり、後半にバッハを思わせる荘厳なカデンツァがあった。第2楽章の長さは一緒だが、オーケストレーションに少しの変更と、ソロのパッセージの大きな改訂がある。初期稿の方がソロの動きは複雑だ。第3楽章は特徴的な冒頭のティンパニのリズムが初期稿にはない。そして初期稿は58小節長い。全体を通して改定稿の方がすっきりとしたフォルムになっている。
 この協奏曲はソロと伴奏という向き合い方で作られていない。管弦楽の音楽の中に、ソロのパッセージが融合している、そのようなスタイルだ。第1楽章の冒頭はオーケストラの弦楽器セクションが大気にわずかな波を作る。そこに静かに語りだすソロの旋律は「孤独」を背負いながら強く切々と訴える。そしてオーケストラに新たなうねりを生み、共鳴し最後は駆け抜ける。第2楽章の歌はシベリウス特有のホルンによる和声が主軸となりソロを受け止める。第3楽章の強いリズムは民族の魂の躍動。ソロ、オーケストラともに終始動き続ける。
 今や古今東西のヴァイオリン協奏曲の中でも人気の高い作品となったが、作られた当初はこの作品の姿をきちんと理解できる人は少なかった。子供の頃から愛する楽器だったヴァイオリンに託した言葉はどのようなものだったのか、シベリウス唯一の協奏曲である。
(新田 ユリ)

バルトーク:管弦楽のための協奏曲

 この曲は、ハンガリーの作曲家バルトークの晩年の傑作であり、20世紀を代表する管弦楽曲の一つです。日立フィルにとっては、第3回定期演奏会(1997年7月26日)以来、18年ぶり2回目の演奏です。前回の解説文も私が執筆し、その書き出しはこのようなものでした。
 高校時代、ヤマハ仙台店の楽譜売り場に、この曲のスコア(総譜)を見つけた。いつかはこんな曲をやってみたいなァ、と思いながら、Boosey&Hawkesの茶色のスコアの表紙をめくっては、変拍子の連続と、複雑な音符が織りなす模様にしばし見入っていたものだ。
 そう、この曲は、私にとって常に憧れの的でした。この曲を演奏するという夢を2度も適えることができるとは、アマチュア音楽家の冥利に尽きる思いです。2度目の演奏であっても、この曲に対する憧れと畏れの気持ちは常に新鮮で、練習するたびに新たな発見があります。以下に、私が思うこの曲の魅力について紹介しましょう。
●作曲の背景
 1940年、バルトークは戦火を逃れ祖国ハンガリーからアメリカに移住しますが、持ち前の頑固さと一徹さから思うような職に就くことはできず、さらに白血病の悪化も重なり、不遇な生活を強いられることとなりました。この窮状を見兼ねた友人たちの支援のもと、指揮者クーセヴィツキーからの委嘱によりこの曲を作曲することになりました。バルトークは意欲的に作曲に打ち込み、わずか2ヶ月ほどでこの5楽章からなる大曲を完成させました。「第1楽章の厳めしさと第3楽章の悲痛な死の歌から、終楽章の生の肯定へ」というこの曲の構成はこうした背景が影響を及ぼしています。1944年12月1日の初演はバルトークも立ち会い成功裏に終え、この活躍により一時的には病から回復したかに見えたほどですが、病魔の進行には抗えず、翌1945年に亡くなりました。
●風変わりな曲名が示すもの
協奏曲につきもののソロ楽器の名前が入っていない。この風変りなタイトルについて、バルトーク自身はこう語っています。
「この交響曲風の管弦楽曲の標題は、オーケストラの個々の楽器あるいは楽器群を、協奏的または独創的な手法によって扱うあり方の中に明らかにされている。」
 この曲でソロに当たるものは、オーケストラの中の各楽器や、各パートの合奏体です。それは、第1楽章の印象的で爽快な金管楽器群のカノンや、第2楽章における管楽器のユーモラスな二重奏に、特に顕著に現れています。このような、合奏体をソロとみなす作風は、バロックの時代のコンチェルトグロッソにその原型を見出すことができます。この曲は20世紀の作品ながら、その様式・表現は古典的なものです。バルトークは、伝統や感性を大事にする音楽家で、ヨーロッパ各地の膨大な民謡を蒐集し採譜研究することをライフワークとしていました。ハンガリーの民謡風の旋律は曲中の随所に聞き取ることができます。また、懐かしさや親しみを感じさせるバルトークの個性的な音楽は、伝統的な民謡の音階と、現代音楽的な数値規則に基づく音列処理、これらを感性で融合させることで生み出されています。
 その他、この曲の聴きどころを以下に列挙しましょう。
 第1楽章冒頭の低弦にはじまる弦楽器の神秘的な響き。続く第一主題の鋭さ・激しさ。第2楽章中間部の金管のコラールの美しさ。第3楽章の独特な音階による厳かで悲痛な歌。第4楽章中間部のヴィオラの旋律の美しさ。第5楽章冒頭のホルンの勇ましい咆哮。弦楽器の疾風怒濤の無窮動の興奮。曲尾へ至る盛り上がりと打楽器の華々しさ・・・。バルトークの鋭い感性はオーケストラの機能性を最大限に引き出し、全曲に亘ってそれらを存分に味わうことができます。
●第4楽章のパロディの狙いとは
この曲について語るとき最も注目されるのは、第4楽章「中断された間奏曲」に唐突に現れるショスタコービッチの交響曲7番のパロディです。何故これを曲に盛り込んだのか、バルトークは自作について多くを語らなかったため真相は定かではありません。従来は、ショスタコービッチに対する怒りによるものされており、前回はそれを踏まえた解説文としました。
 ここでは、ショスタコーヴッチの成功を快く思わなかったバルトークの、音による復讐を聴くことができる。メロディはトロンボーンで馬鹿にされ、オーケストラの和音とタムタムの一撃で大笑いされることとなる。
 ところが、近年発刊された息子ペーテルの著作には、かなり異なる状況が記されています。
 バルトークはショスタコービッチを高く評価していました。1942年、交響曲第7番のアメリカ初演のラジオ生放送を一家揃って聴いた際、バルトークは、主題が何十回も繰り返し奏されることに対して「なぜこの主題を?」と何度もつぶやいたそうです。
 「この傑作や作曲者を侮辱するものではなく、一人の芸術家から別の芸術家に対する技術的な批評だった」とペーテルは回想し、こう結論づけています。「父は自分だけのジョークを作って満足していた。そして誰にも話さず、一人で楽しんだのだ」
 頑固者として知られるバルトークも、息子の目から見れば暖かく愛情ある一人の人間でした。ジョークを飛ばし駄洒落も言う。従来の偏屈で不機嫌なだけのイメージと異なるバルトーク像でこの箇所をジョークとして聴くと、また違った味わいで楽しむことができます。
●日立フィルの方向性を決めた曲
 魅力とエピソードに満ちたこの作品の演奏においては、難しいパッセージを正確に音にすることはもちろん、すべての楽器が協奏曲のソロとして演奏し表現することが求められ、難易度が極めて高い作品と言えます。日立フィルは、結成後間もない第3回定期にこの曲に挑戦したことにより、その後の活動の方向性が決まり、今日に至ります。第3回定期の解説文は、中国の故事成句を引き、危うきに近寄らずよりも、虎穴に入るのほうが好き、と締めくくりました。地道に堅実に活動するが、挑戦も忘れない。本日の演奏は、この精神をさらに次の時代に引き継ぐものとなることでしょう。
(Flute 庄子 聡)

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