演奏会の履歴

日立フィルで過去に取り上げた作品を演奏会別にご紹介しています。

第43回定期演奏会(曲名をタップ/クリックすると解説文が表示されます)

2017年7月23日(日) すみだトリフォニーホール 指揮/武藤 英明

ボロディン:ダッタン人の踊り ― 歌劇《イーゴリ公》より

 アレサンドル・ボロディンは1833年にロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに生まれ、同じくサンクトペテルブルクにて1887年に没した19世紀の人です。本日の演奏会にて取り上げているもう一人の作曲家、ピョートル・チャイコフスキーはというと、1840年に生まれ1893年に亡くなっていますので、この二人は概ね同じ時代を生きたと言えます。ただ、この二人のプロフィールには決定的に違う点があります。それは、チャイコフスキーが作曲等の音楽活動に専念していた(一時期を除いて)のに対して、ボロディンは化学者という本職を持つ日曜作曲家であったということです。Webサイトで調べてみますと、化学の世界には「ボロディン反応」なる用語があるとのことで、化学者としての彼の功績が伺い知られるところですし、一方の作曲活動においても、『中央アジアの草原にて』や『弦楽四重奏曲第2番』、本日演奏します『ダッタン人の踊り』等、一度聴いたら忘れられない美しい名曲の数々を残しており、彼の二足の草鞋の履きぶりは実に見事です。
『ダッタン人の踊り』は、歌劇『イーゴリ公』の一部の曲です。『イーゴリ公』は12世紀の叙事詩『イーゴリ軍記』の物語を元にボロディンが作曲した歌劇ですが、彼はこれを完成させずに亡くなってしまいましたので、実はかなりの部分が、同時代の作曲家であるニコライ・リムスキー=コルサコフとアレクサンドル・グラズノフによって補作されたものであると言われています。この『ダッタン人の踊り』についても、彼らの手が入っている可能性はありますので、お聴きいただく際には作曲者ボロディンはもちろんのこと、この二人にも思いを馳せていただけると、彼らも喜ぶに違いありません。
なお、この曲の原題は日本語に直訳すると『ポロヴェツ人の踊り』というものなのですが、どういう訳か日本では、『ダッタン人の踊り』という題で親しまれています。何故なのでしょうか。『ポロヴェツ人』はウクライナからカザフスタンにかけて広がる草原地帯に存在した遊牧民族である一方、『ダッタン人』はロシア周辺の遊牧民族等の幅広い民族を指す総称で、『ポロヴェツ人』を包含する概念であると言えますので、この曲が日本に紹介される際、あえて『ダッタン人』と訳されたと推測されます。ただ、近年この曲は『ポロヴェツ人の踊り』とクレジットされることが増えているようです。
『イーゴリ公』は、キエフ地方の一領主であるイーゴリ公が、領地防衛のためにポロヴェツ人討伐に向かうも敗れて捕虜となり、そこから脱出して妻の元に帰還するまでを描いています。この曲はそのうちの第2幕の曲で、敵将コンチャークがイーゴリ公をもてなすために、ポロヴェツ人が様々な踊りを披露する場面を描いています。
まず初めに木管楽器とホルンによる和音の美しい序奏があります。その後、娘たちの踊り、男たちの踊り、全員の踊り、少年の踊りが続きます。一度出てきた踊りが、別の踊りの後再度登場することもあります。是非、今聴いているのが何の踊りなのか、想像しながらお聴きになってみてください。ちなみに、特に有名なあの旋律は、娘たちの踊りのものです。
 筆者はこの曲を弾いていると、不思議と懐かしい気持ちになります。ボロディンの父の出身地ジョージアがトルコに接しており、非常にアジアに近い地域であることが関係しているのでしょうか。それともポロヴェツ人という題材から、アジア的な要素を作曲者が意図的に盛り込んでいるのでしょうか。色々な要因があるのでしょうが、いずれにせよ、ロシアや欧米とは異なる文化的背景がこの曲にはあり、それは私が生まれ育った日本が有する文化的背景とも共通の根を持っているということなのでしょう。
(Violoncello 甲斐 章浩)

チャイコフスキー:バレエ《白鳥の湖》作品20より(抜粋)

 チャイコフスキーは《白鳥の湖》を1875年に作曲を始め、1877年ボリショイ劇場において初演を行なった。しかし当初の評判は芳しく無く、その後何度か再演されるが評価が上がることは無かった。1893年にチャイコフスキーが亡くなり、1894年の追悼公演で再び《白鳥の湖》の第2幕のみが上演される。1895年、振付家マリウス・プティパとレフ・イヴァーノフによる新演出と、指揮者リッカルド・ドリゴとチャイコフスキーの弟モデストにより台本と音楽の一部が改定され、《白鳥の湖》の全幕が再演された。この公演は大成功を納め、《眠れる森の美女》、《くるみ割り人形》と共に《白鳥の湖》はチャイコフスキーの3大バレエ曲と言われるようになった。
 バレエ曲《白鳥の湖》は全4幕、全29曲から構成されその中から1882年にチャイコフスキー自身のアイデアにより演奏会形式が提案されたのが始まりで、その後、指揮者や演奏者により抜粋される曲が変わる事があるが演奏会用のプログラムとして組曲形式で演奏される機会も多い。
《物語のあらすじ》
 中世のドイツ。城では王子ジークフリートと友人、村の人々が王子の成人を祝って踊っている。そこに王子の母親である王妃が現れ、舞踏会で花嫁を自分で選ぶように王子に命じるが、王子は気が進まない。王子は白鳥の群れが遠くに飛んでくのを見て、白鳥狩りを思いつき湖に向かう。  湖に着くと月光に照らされている中、白鳥の娘オデットが白鳥の王女姿でジークフリートの前に現れる。ジークフリートは慌てて矢を射るのを辞め、オデットの話を聞くと魔法使いに魔法をかけられ愛ある結婚をした時のみ魔法が解けると告白する。ジークフリートはオデットに愛を告白し白鳥達に祝福される。ジークフリートはオデットに明日の舞踏会に来て欲しいと告げるが、オデットは魔法使いの試練があるのでは無いかと恐れる。夜が明けるとオデットと白鳥達は空に姿を消している。
 城では舞踏会が開催されている。各国の王子、王女達が舞踏会に招待され踊りを披露している。王妃はどの王女と結婚するのかと尋ねるが、ジークフリートはオデットを待っている。そこにファンファーレが響き渡り王女オディール(黒鳥)が現れる。ジークフリートはオデットと間違いオディール(黒鳥)に結婚を申し込む。その時突然暗闇となり、窓辺に王冠を抱いた白鳥オデットの姿を見て、ジークフリートは自分の間違いに気づき、湖へと向かう。
 ジークフリートの裏切りにあって絶望したオデットが湖に戻ると湖が荒れ始め、そこへジークフリートが現れ自分の過ちをオデットに詫びる。しかしオデットは許す事が出来ない。ジークフリートは愛を繋ぎとめようと魔法を解こうとするが、オデットは魔法によって破滅させられ王子の腕の中に倒れる。そしてジークフリートとオデットは荒れる湖に飲み込まれてしまう。その後嵐が過ぎ去り月光が差し込むと白鳥達の群れが再び姿をあらわす。
《組曲の紹介》
第1曲 情景(第2幕 第10番)
 ジークフリートとオデットの出会いを運命付ける場面で使用されている。弦楽器のトレモロ、ハープのアルペジオの上に白鳥の湖で最も有名な旋律であるオーボエの主題が提示される。
第2曲 ワルツ(第1幕 第2番)
 ジークフリートの成人を祝って村人たちが踊っている場面に使用されている。大規模なロンド形式(A-B-A形式)で書かれている。
第3曲 4羽の白鳥たちの踊り(第2幕 第13番の4)
 ジークフリートの告白を祝福する軽やかな白鳥達の踊り。4羽の白鳥達が手をつなぎ軽やかに踊っているシーンが印象的な曲である。軽やかな主題がオーボエのデュエットで演奏され、その後フルートとクラリネットで主題が繰り返される。
第4曲 王子とオデットのパ・ダクシオン(第2幕 第13曲の5)
 第2幕の中心となるオデットとジークフリートのパ・ダクシオン。木管楽器とハープが二人を神秘的な世界へと導いていく曲。ソロ・バイオリンが奏でる甘く美しいメロディーにオデットとジークフリートはデュエットを踊る。
第5曲 ハンガリーの踊り(第3幕 第20番)
 舞踏会で踊られる4つの民族舞曲の一つ。前半のゆったりた哀愁ある踊り(ラッサン)と後半の急速で気分の高揚した踊り(フリスカ)の2部構成で出来ている。シンコペーションと鋭いアクセントによって熱狂的に曲を終わる。
第6曲 スペインの踊り(第3幕 第21番)
 舞踏会で踊られる4つの民族舞曲の一つ。オディール(黒鳥)が舞踏会に現れ、その姿にオデットと思い込み駆け寄ろうとしたジークフリートを威嚇するかの様に軽快な音楽が始まる。カスタネットの軽快なリズムが特徴的なエキゾチックなスペイン発祥のボレロ。
第7曲 終曲(第4幕 第29番)
 誤解の元に二人の愛が劇的に収束へと向かうシーン。フィナーレに入ると白鳥の主題がオーボエによりイ短調で演奏され、動揺と興奮を作り出す。その後白鳥の主題が縮小されていき、差し迫った危険を表す。終盤は白鳥の主題が再び第1曲目のロ短調で大きく再現されエンディングへと向かう。
(Oboe 千田 栄)

チャイコフスキー:交響曲第4番 ヘ短調 作品36

 ロシアを代表する作曲家チャイコフスキーは、番号を付した交響曲を6曲残しているが、後半の第4、5、6番の3曲の人気が特に高い。これらの3曲はいずれもそれぞれに魅力的な名曲であるが、その中でも第4番は、交響曲作曲家としてのチャイコフスキーの地位を確立させた曲であり、哀愁漂うメロディとダイナミックな管弦楽法を存分に堪能できる曲として、多くのファンに愛されている。
 この曲は、1877年~1878年にかけて作曲された。1878年2月22日モスクワ、ニコライ・ルビンシテイン指揮、帝室ロシア音楽協会の交響楽演奏会にて初演された。この頃のチャイコフスキーは、アントニーナ・イワノヴナ・ミリューコヴァと結婚するがわずか2ヶ月余りで破綻し、その後精神を病み自殺未遂を企て、さらには逃げ回るように妻と別居している。まさに人生最大の波瀾万丈の最中にあった。アントニーナの「悪妻」のイメージは、近年では後世の研究者たちの創作であろうとも言われるようになってきたが、いずれにしても、この頃のチャイコフスキーは平穏で幸福な結婚生活とは程遠い状況であったことは間違いない。
 一方で、チャイコフスキーは、この前後にピアノ協奏曲第1番(1875年)、三大バレエの一つで本日の前半のプログラムでもある《白鳥の湖》(1876年)、ヴァイオリン協奏曲(1878年)、オペラ《エフゲニー・オネーギン》(1878年)、そして交響曲第4番(1877~78年)と、現在私たちが愛聴する作品の多くを集中して作曲し、作曲家として充実した時期にあった。
 チャイコフスキーは、1877年の暮(妻との別居後)に、イタリア、ヴェネツィアのホテルに2週間以上滞在し、交響曲第4番を書き上げている。モスクワ音楽院での教師としての仕事に対する不満と、また経済的な問題も抱えていたチャイコフスキーが、裕福な支援者であるメック夫人の力により作曲家として創作活動に没入できる環境を手に入れたのがこの時期であり、イタリア滞在もこうした背景により実現したものである。メック夫人は、鉄道敷設事業で財を成した夫の急死により莫大な財産を受け継ぎ、芸術を愛する彼女は芸術家たちに金銭的な支援を与えた。・・・こうした解説は、音楽書に多数見られるが、さていったい、どのくらいの金額をメック夫人はチャイコフスキーに与えていたのだろうか?答えは年間6,000ルーブル。
 この金額を現在の日本の貨幣価値に単純に換算することは困難だが、それまでモスクワ音楽院に務めて得ていた年収の約2倍、と捉えればイメージが明確である。この支援額は、各地を旅行し、別荘暮らしをしながら作曲に専念するには十分な金額である。願ってもない貴重な支援者であるメック夫人に対し、チャイコフスキーは交響曲第4番を「親愛なる友に」と捧げ、さらにこの曲の詳細な解説の書簡をしたためている。こうした経緯から類推できる通り、書簡の内容はメック夫人を満足させることを意識して書かれた気配が濃厚であり、チャイコフスキーの本心を綴ったものか疑問視する意見も少なくないが、この曲を理解するための有用な手がかりであることは確かである。
 同じ音を繰り返す冒頭のファンファーレ(メック夫人に宛てた書簡によれば「運命」を表している)と、続く第1主題の下降する音形は、いずれもロシア民謡《野に立つ白樺》に題材を取っている。全楽章に共通して現れる主題であり、曲の統一感を構成している。この民謡は全曲を通してこの交響曲の基礎をなし、終楽章ではついにその民謡がそのまま第2主題として登場する。このように、各楽章の統一感や様式間をもった交響曲の作風は、ベートーヴェンやブラームスに通じるものであり、ロシア国民楽派の作品と一線を画すものとなっている。
 第1楽章冒頭のファンファーレは、オペラ《エフゲニー・オネーギン》のポロネーズにも登場するものである。また第1主題の儚く下降する音形は、8分の9拍子のワルツ(大きな3拍子と小さな3拍子が二重に重なった複雑なワルツ)で構成されており、ポロネーズとワルツという「踊り」の音楽が基調となっている点は《白鳥の湖》に通じている。また、バレエ作品に見られる絢爛豪華なオーケストラの響きは、この交響曲の全編にわたって存分に味わうことができる。  第2楽章の冒頭でオーボエが奏でる主題も、また、第3楽章で弦楽器がピッツィカートで奏でる主題も、4つの音の下降音形からなる。第4楽章で弦楽器と木管楽器が高速で奏でる主題も下降する音形から始まる。
 メック夫人に宛てた書簡の中で、チャイコフスキーは第4楽章について「この世は暗黒だけではなく、この楽章で示されているように多くの素朴な人間の喜びがある。たとえ我々は馴染めずとも、その喜びの存在を認め、悲しみを克服するために生き続けることができる」としている。このような「苦悩から歓喜」「暗から明」という曲の構成は、ベートーヴェンの交響曲第5番《運命》以降、この時代における交響曲の基本的な構成として好まれた型のひとつである。

(Flute&Piccolo 庄子 聡)

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