演奏会の履歴

日立フィルで過去に取り上げた作品を演奏会別にご紹介しています。

第47回定期演奏会(曲名をタップ/クリックすると解説文が表示されます)

2019年8月4日(日) 東京芸術劇場コンサートホール 指揮/武藤 英明  ソプラノ/高橋 薫子  テノール/澤﨑 一了  バリトン/砂田 直規
芙蓉グループ合唱団  練馬児童合唱団

ヴァーグナー:歌劇《ローエングリン》より第1幕への前奏曲

ヴァーグナーという作曲家の名前を聞き、何を思い浮かべるだろうか。音楽、恋、贅沢をこよなく愛し、愛犬家だった一面もある。世界中に熱狂的なファンが存在し、ワグネリアンと呼ばれている。その中には音楽という分野を越えて、様々な領域の人々がいる。それは、ヴァーグナーが芸術はもちろんのこと文学、哲学、宗教、政治、さらには女性学というあらゆる事柄について書き、語り、実行していった人物であったからだといえる。
 歌劇ローエングリンは、中世の叙事詩「白馬の騎士、ローエングリン」に基づいて作曲されたものであり、第3幕からなる。第1幕への前奏曲以外の作品スケッチは、1846年5月から7月にかけて、ドレスデン郊外のグラウパで書かれた。1847年5月からドレスデンにて、最後の幕である第3幕からオーケストレーションが始められた。今回演奏する第1幕への前奏曲は最後に作曲され、1848年4月28日に全曲が完成された。1848年2月、パリで始まった革命はヨーロッパ各地に広がり、ヴァーグナーも政治的な発言をするようになる。1849年5月のドレスデンの暴動では敵陣の中に乗り込み兵士にビラを配ったり、聖十字架教会の塔に登り戦況を中継するという大胆な行動に出た。だが革命は失敗する。ヴァーグナーには逮捕状が出され、長い亡命生活に入ることとなるが、そのような血なまぐさい状況を微塵も感じさせないのがこの第1幕への前奏曲である。
ヴァーグナーによると「聖杯グラールが天使の群れに伴われて、地上の至福の人々のもとに降ってくる」様子を描いた前奏曲である。十字架に架けられロンギヌスの槍で刺されたキリストの血を受けたとされるのが聖杯である。中世の伝説では、聖杯の騎士と呼ばれる騎士達が聖杯を護っているとされていた。第1幕への前奏曲は、天使によって地上にもたらされた聖杯が光り輝き、また天使によって天上へ去っていく様子を描いた作品である。
 第1幕への前奏曲はヴァイオリンに始まりヴァイオリンで終わる。冒頭の和音はこの上ない静謐感を湛えており、それに続く聖杯グラールの奇蹟的霊験を表した崇高な旋律は8つに分けられたヴァイオリンで奏される。聖杯を守護して緩やかに空から降りてくる天使の群れが目に浮かぶ。中間部では次第に楽器群が増やされ、音の密度が濃厚さを増す。聖杯が光り輝く歓喜に満ちた場面は、シンバルのひと打ちで頂点に達する。しかし、すぐに静まり聖杯は清涼な天上の世界に戻っていく。わずか75小節のこの曲は、聴く者にこの上ない至福と惜別の念をもたらす。劇場では、その雰囲気を味わいつつオペラの幕が開く。
 ローエングリンのあらすじは以下の通りである。時は中世、現ベルギーのアントワープ。ブラバント公国の世継ぎが行方不明になっている。貴族のひとりテルラムントが、前大公の娘エルザが弟を殺したと訴え出た。しかし奇跡が起こった。白鳥が曳く小舟に乗って現れた騎士ローエングリンが、彼女の危機を救ったのだ。ローエングリンは自分の素性を尋ねないことを条件にエルザと結婚する。しかし、エルザはテルラムントと魔女オルトルートに疑念を吹き込まれ、婚礼の晩、ついに彼の名を尋ねてしまう。ローエングリンは自分が聖杯の騎士であることを名乗った。ローエングリンは名乗った以上、帰らなければならない宿命にあった。ローエングリンは、エルザの元から去っていく。エルザは悲しみのあまり息絶え、2人の愛は終わるという悲劇的結末を遂げるオペラである。禁問を発したが故に愛する者を失ったエルザ。タブーを犯したことが原因で離別するという話は、旧約聖書、ギリシア神話、日本神話、日本民話をはじめ、多くのモチーフとなっている。日本民話の鶴の恩返しや、死んだ妻エウリュディケを連れ戻そうと冥界に下ったが、冥界の王ハデスとの約束に反して、後ろを振り向いて妻を見たため、望みを果たせなかった竪琴の名手オルフェウスのギリシア神話は有名である。
 第1幕への前奏曲から受けた印象を、多くの人が文章に残している。リストは「我らが魂を地上の生よりも高次の尋常ならざるものに導く呪文、聖堂の得も言われぬ美」と称しており、ボードレールは「引力の束縛からの解放、光の強度」と表した。また、チャイコフスキーは「光と真実と美の王国へ我らを導くもの」と伝えている。これらの表現によると、第1幕への前奏曲から受け与えられるものは、言葉では捉えることが出来ない、この上ないものであることが分かる。好奇心に負けたパンドラが箱を開けたことで、この世には恨み、ねたみ、病気、猜疑心、不安、憎しみ、悪徳など負の感情が溢れ出て、世界中に広まった。しかし、閉じられた箱の底には希望だけが残っていた。第1幕への前奏曲は、残された希望が音楽によって崇高に模されているとも感じられる。
(Violin 吉永 留美子)

ラヴェル:ボレロ

ボレロの背景知識
 ボレロはもともとスペイン音楽のひとつで、18世紀の後半にスペインのダンサーによって考案されたと言われています。私たちがスペイン音楽と言って思い浮かべるギターやカスタネットを伴奏にした3拍子の舞踏曲で、ファンダンゴ(同じく3拍子のスペイン音楽)といったほかのスペイン音楽に比べるとややゆったりとしたテンポが特徴です。
 19世紀になってスペイン音楽がヨーロッパで流行すると、ボレロも音楽の一ジャンルとして受容され、多くの作曲家によってボレロの楽曲が書かれました。よく知られている作曲家で言えば、ベートーヴェン、ショパン、チャイコフスキーなどがスペイン風の曲としてボレロを取り上げています。このように、本来は音楽の一ジャンルを指す言葉だったにもかかわらず、今日ではボレロと言えばすっかりラヴェルの作品を指す言葉となっています。「演奏会へボレロを聴きに行ってくる」と言えば、皆がラヴェルの作品のことだと思うでしょう。ボレロはもともとバレエ音楽として制作されました。ロシアバレエ団のダンサーから、スペイン調のバレエ作品を作って欲しいとの依頼を受けたのがきっかけです。ラヴェル自身はそれほど思い入れがあった曲ではなかったそうですが、初めて演奏されたときから熱狂をもって受け入れられ、その人気は今日まで続いています。
楽曲について
 ボレロを特徴づけるのは、何といっても各要素の執拗な繰り返しでしょう。冒頭小太鼓によって刻まれるスペイン調のリズムは、最後の2小節になるまでリズムを変えることなく繰り返されます。また、主音(ハ音)から属音(ト音)そしてまた主音へという進行(西洋音楽の基本となる進行)も、最後に一度だけ現れる転調まで形を変えません。これらの一定のリズム・進行を伴奏として、対になる2つの旋律主題が演奏されます。2つの主題をそれぞれ2回ずつ反復したところで1巡、これが5巡目まで形を変えずに繰り返されます。西洋音楽では1つの主題をいかに巧妙に展開させていくかが作曲家の腕の見せ所だったので、一向に主題を展開させないというのは作曲当時きわめて斬新なアイディアだったようです。旋律が繰り返されていくうちに徐々に楽器の数が増えていき、曲全体が大きなクレッシェンドとなるように設計されています。
 伴奏も旋律も同じリズムで繰り返し、音量変化もひとつのクレッシェンドだけ、と一見単純そうに見えるボレロですが、ラヴェルの卓越したオーケストレーションの才能によって非常に色彩豊かに書かれています。オーケストレーションには、個々の楽器の特性を存分に活かすための技法(楽器法)と、楽器同士を効果的に 組み合わせるための技法(編曲法)がありますが、曲の前半では楽器法、後半になるにつれて編曲法の妙が際立ってきます。  楽器法の観点では、旋律主題を演奏するのに用いる楽器・音域・奏法の選び方に、「曲全体でひとつのクレッシェンド」を実現するための、ラヴェルの強いこだわりを感じることができます。最初の旋律は音量の得づらいフルートの中・低音域を使用することで、曲の冒頭にふさわしい雰囲気を作り出しています。また、3巡目に複数楽器で旋律を演奏した後、トロンボーンが1本で2つ目の主題を演奏しますが、元々音量の出しやすい楽器であることに加え、緊張感の高い2つめの主題の旋律をグリッサンド奏法を交えながら演奏することで、これまで以上のエネルギーが感じられるように設計されています。また、1巡目最後の小クラリネット、2巡目のオーボエ・ダモーレ(バロック時代に使用されたオーボエ属の楽器)、サクソフォーンなどの特殊な楽器を使用することで、音色に幅を持たせようと試みられています。
 編曲法の観点では、3巡目冒頭、ホルンとチェレスタの旋律に対してピッコロ2本が別の調で主題をなぞること(復調)で、オルガンのような音響効果を狙ったという話が有名です。復調のテクニックは、この箇所だけでなく以降もたびたび用いられ、旋律に深みを与える役割を担っています。  ボレロを魅力的な曲に仕立て上げているもうひとつの仕掛けは、最終盤での急激な変化です。まず5巡目の主題に変化が生じます。反復のあったはずの第1主題の後に突然第2主題が現れ、その第2主題も後半の旋律が引き伸ばされます。流れが変わったな、と思ったとたん、これまで変化することなく続いてきたハ長調の和音が急に3度上のホ長調に転調します。しかしその転調もすぐに元の調に戻り、各種打楽器が打ち鳴らされ音量も最高潮に達すると、これまで積み重ねてきたものを打ち壊すかのように劇的に曲が終わります。ここまで約15分の間焦らされてきたものが一気に解放された瞬間の快感を味わうことが、ボレロを聴くことの一番の醍醐味と言えるでしょう。
(Clarinet 並木 正信)

オルフ:カンタータ《カルミナ・ブラーナ》

【邂逅―オルフとカルミナ・ブラーナ】
日本では「カルミナ・ブラーナ」の作曲家として知られているカール・オルフ(1895 -1982)が生涯をかけて尽力したのは、音楽教育であった。音楽に自発的に触れ体感を身に着けることで音楽創作の意欲を育んでいく、そんなオルフの理想にふさわしい楽曲に求められるのは、何よりも明快な旋律、和声、そしてリズムである。1924年、ミュンヘンに音楽と舞踏を専門に教える「ギュンター学校」を設立し、音楽と身体運動を結び付けた独自のリズム教育を展開した。そして1934年、オルフは運命的な出会いともいえる、中世の歌集「カルミナ・ブラーナ」に遭遇する。そのときの印象を、オルフは次のようにコメントしている。
《運命の女神が微笑みながら、ヴュルツブルク古書店のカタログを私に託し、そこに『カルミナ・ブラーナ』校訂本のタイトルを見出すや、魔術的な力が私を突き動かした。》
 時代はさかのぼり、1803年、神聖ローマ帝国が事実上崩壊すると、ドイツ各地の教会組織が各領邦に接収されることになり、差し押さえられた教会資産である古文書が、続々とミュンヘンの宮廷図書館(現バイエルン州立図書館)に集められていった。その中のひとつに、ミュンヘンの南方50kmほどに位置するベネディクトボイエルン修道院で発見されたという112枚の羊皮紙からなる古写本が含まれていた。高名な言語学者だったシュメラーが図書館の司書に就任すると、この古写本に並々ならぬ興味を示し、精力的に研究調査した成果を一冊の校訂書として上梓した。そして、発見された修道院のあった地名にちなんで「カルミナ・ブラーナ」(中世ラテン語でボイエルンの歌集といった意味)というタイトルがこの書物に付けられた。
 「カルミナ・ブラーナ」は、11世紀から13世紀にかけて作られた詩歌を集めたもので、多くは中世ラテン語で書かれているが、一部、古いドイツ語やフランス語も混じる。構成は「真面目」編、「愛、酒、遊び」編の2部に分かれる。前半は、「真面目」と題されていても当時の教会を批判的に皮肉ったものも含まれる。 また、後半はといえば、「愛」といっても、精神的なものというより、フィジカルな行為を示唆するものも多数あり、「酒」はいわずもがな、「遊び」は賭博であり、まさに「呑む打つ買う」の「不真面目」編である。これらの作品の作者は、判明しているものはごくわずかだが、当時中世ラテン語をあやつること自体、学識のある人に限られていた。また、編纂者も不明だが、高価な羊皮紙をふんだんに使い、ヨーロッパ中から250編もの作品を集めて本を作成するということは、それなりの財力と権威を持ち合わせ、しかもかなりの博学な人間なのだろうと想像される。現在では、有力なカトリック教会の司教が編纂者だとする説が有力だそうである。しかしそれにしては、およそ高位聖職者にふさわしからざるたぐいのものが数多く集められているのはどうしたことか。「暗黒の中世」などという見方は昨今すでに否定されていることもあり、清濁併せ呑むような度量のある司教がいたのであろうか、いろいろ想像してみるのも面白い。
 さて、出版されてから87年も経ってから、運命の女神の戯れのまま、シュメラーの「カルミナ・ブラーナ」を作曲家オルフに手渡すと、「魔術的な力」にとり憑かれたオルフはすぐに作曲にとりかかる。オルフの言葉を続けて引用する。
《1934年の復活祭前の聖木曜日、この書物を手にした日であり、わたしにとって忘れえぬ日付となった。ページをめくると、すぐにあの縦長の挿絵と”O Fortuna”で始まる言葉が目に飛び込みそして釘付けとなった。目次をざっと眺めているだけでも歌い踊る舞台のイメージが止め処もなく脳裏に浮かんでくる。第1曲の合唱曲はその日のうちにアウトラインをスケッチし終わり、その晩は一睡もできぬまま翌日には第2曲目を作曲し終わった。復活祭当日には、第5曲目を完了した。》
しかし、さすがに中世の詩歌集を読み解いていくのは、オルフにとっても難事業だったようで、専門家の協力も得ながら24の詩を選定し、作品の完成までに2年以上かけている。1937年6月のフランクフルトの劇場での初演は大成功であり、オルフは、契約していたショット出版社に対して、下記のように伝えた。
《これまで私が作曲してきたもの、そして貴社が不幸にも出版してしまったものですが、これらはすべて廃棄してしかるべきものです。「カルミナ・ブラーナ」をもって私の作品リストは始まるのです。》
初演当時のドイツはナチス政権が隆盛を誇っており、難解なモダニズムを排除してきたナチスにとっては、聴く人が容易に高揚感を得ることができる「カルミナ・ブラーナ」は、大いに称揚するところとなった。ナチスから容認されたこともあって、ドイツ各都市で次々と再演され、一躍大人気の曲となった。ところが敗戦後、ナチス政権が消滅すると連合国主導で非ナチ化政策が進められ、その中で、オルフはナチス政権に容認されたことが災いし、ナチス協力者の嫌疑をかけられ告発 される。福を転じて災いと為す、まさに「カルミナ・ブラーナ」の冒頭歌詞を地でいく結果となった。オルフは、ナチスから直接報酬を受けていたわけではないので、その点をもって反論するも、さりとて表立ってレジスタンスの意を表明した証拠も出せず、なかなかグレイな状態を解消することはできなかった。しかし、ついに米国当局が「疑念は残るも、「証拠不十分」として積極分子のリストからオルフを除外することを決定すると、ようやく音楽家としての要職復帰が許されることになった。そして、大ヒット作「カルミナ・ブラーナ」の作曲者としての活動を晴れて再開することができたのである。
さて、その後もオルフは、劇場スタイルの作品をいくつも創作しているが、残念ながら現状「カルミナ・ブラーナ」以外の作品の上演機会はまれである。単に「カルミナ・ブラーナ」を超えるような作品を生み出すことができなかったのだと言ってしまえばそれまでだが、他にも理由があるように思える。特に戦後のオルフの作品においては、打楽器類の使用における異常ともいえる執着が顕著になる。オルフの自宅には世界各地の民俗打楽器が集められ、さらには自身で新しく改良した打楽器を試作したりした。そしてそれらをことごとく自作に指定したため、例えば100点以上の打楽器を20名以上の奏者で演奏しなければならないような作品もある。これでは、採算性という観点でも上演を躊躇されてしまうのは無理からぬことである。
「カルミナ・ブラーナ」におけるオルフの作曲スタイルは、主題の展開など一切せず、1番2番と歌われる歌詞を、オーケストレーション含め同じ形式のまま繰り返すというもの。一度聴けば忘れない印象深いメロディー、打楽器類に色づけられた鮮烈なリズム、シンプルながら新鮮な和声、これらすべてが、あの独特の高揚感を作り上げていくのである。オルフが心血を注いだ「カルミナ・ブラーナ」が、20世紀になってから作曲されたクラシック音楽作品としては異例の人気を得ていることは間違いなく、現在でも、世界中で上演され、また録音も数多く世に出て親しまれている。
(Perc 桑原 崇)

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