演奏会の履歴

日立フィルで過去に取り上げた作品を演奏会別にご紹介しています。

32定期演奏会(曲名をタップ/クリックすると解説文が表示されます)

2012年2月26日(日) 昭和女子大学人見記念講堂 指揮/野崎 知之

ヴェーベルン大管弦楽のための牧歌「夏風の中で」

ヴェーベルンの曲というとどんな印象を受けるでしょうか。わかりにくい、難しい、短い、あるいは知らない、等々出てくるのではないかと思います。ちょっとうるさい(?)クラシックファンであれば「あぁ、新ヴィーン楽派の12音音楽、無調作品の人ね」なんてなるわけですが、今日の曲は違います。ご安心ください。とっても聴きやすい美しい曲です。
私のこの曲との出会いは高校時代、FMから流れたのを聴いたのが最初でした。その時よりいつの日か演奏したいなぁと思うこと20数年、日立フィルの選曲会議(?)にずっと出し続けること10数年(苦笑)。最近では自分もほとんどに期待していなかったのですが・・・去年「次回の演奏会曲に選ばれたよ!」と聞いたときは、嬉しいというより、まさか!と思う始末でした。
この曲はヴェーベルンが20歳の後半で書いた曲で、作品番号もなく、生前には演奏されていません。スコアが彼の遺品から発見され、1962年オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団による演奏が初演でした。その後も演奏会で取り上げられることが少ないため、知らない方も多いかと思います。録音も少なめです。ヴェーベルンの曲の中では演奏時間も長く(彼の曲はそもそもが短いのです)15分前後、ホルンが6本にハープ2つという大編成(副題が「大管弦楽のための牧歌」ですし)ということも相まってアマチュアオケで取り上げるのは更に少ないです。今日お越し頂いた皆様はとっても幸運です。こんな素敵な(そして珍しい)曲が聴けるのですから(演奏が素敵かは聴いて頂いた後の判断ということで・・・笑)。
冒頭に「聴きやすい」と書きましたが、リヒャルト・シュトラウスの交響詩を聴いているようなそんなロマン的な曲です。ただそこはヴェーベルン、その後の彼らしいフレーズが見え隠れします。私はこの曲にアルプスの山を感じていました。実際調べてみるとヴェーベルンはこの曲を書き上げる2年前1902年にミュンヘンでセガンティーニの「アルプスの風景 Alpenlandshaft」を見ています。セガンティーニといえば去年日本で巡回展があったのでご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんね。ご覧になった方はその絵を思い出しながら、ご覧になっていない方はヨーロッパアルプスの爽やかな夏を想像しながらお聴きください。決して日本の蒸し暑い「夏」はイメージなきよう・・・。最後に「夏風の中で」を作曲した次年に彼が書いた文章を引用しておきますね。

「私は、絵画に於けるセガンティーニのような芸術家を音楽の世界で求めている。その音楽は、孤独のなかで、この世の喧噪から遠く離れ、氷河のごとき、永遠の氷雪の世界のごとき、厳粛にして偉大な山々のごとき瞑想のなかから生まれるものでなければなるまい。そしてそれは、セガンティーニの絵画のようなものになるだろう。アルプスの嵐の訪れ、山々の万能の力、花々に囲まれた小道に降り注ぐ夏の太陽──これらが全てがアルプスの孤高から生まれ、音楽の内に存在しなければなるまい。」(*)

(*)岡部真一郎 「ヴェーベルン西洋音楽史のプリズム(春秋社)」より引用

(Vn 堀崎 修一)

ブルックナー交響曲第7番 ホ長調

ブルックナーが「7番」を与えた交響曲を語るにあたり、どうしても触れなければならない音楽家が2名います。したがってここでは曲の内容に先立ち、3名の音楽家のことに関して説明します。
まず作曲家のブルックナーですが、ベートーヴェンの「第9交響曲」が書かれた1824年にオーストリアの東北部で生まれ、少年時代から故郷に近いリンツでオルガニストとして名を馳せます。そしてそこで音楽の研鑽を積んでいる最中の1862年に、「タンホイザー」のスコアを目にして衝撃を受けます。
リヒャルト・ヴァーグナー(1813~1883)は、歌劇を演劇と舞台美術を合わせた「総合芸術」に高めたドイツが生んだ大作曲家ですが、「タンホイザー」は1845年に完成された比較的初期の作品です。しかしながらバッハを筆頭としたオルガン作品や、ベートーヴェンやメンデルスゾーンの管弦楽から作曲を学んでいたブルックナーは、伝統的な音楽の枠を超えたヴァーグナーの音楽に魅了されることとなり、交響曲の作曲を目指すようになるのです。
1868年、ブルックナーはヴィーンで宮廷オルガニストと音楽大学教授の地位を手に入れて、その後の人生を音楽の都で過ごすことになります(~1896)。でもその音楽人生は平坦ではありませんでした。オルガニストとしては引き続き名声を得ていましたが、当時ヴィーンではヴァーグナー派とブラームス派が争っていた時期であり、ヴァーグナー協会に入会してヴァーグナーへの思いを実直に表したブルックナーにとっては、「交響曲」を認めてもらうにはむしろ不利な環境下にあったのです。いまでこそブルックナーの交響曲の中では最もポピュラーな交響曲第4番「ロマンティック」もブルックナーは初演から何度も修正しています。物価の高いヴィーンでは収入が足らず、生活も苦しかったようです。
そうした状況下にあったブルックナーにとって現状打破となったのが「交響曲第7番」の初演でした。ホ長調の交響曲1881年に作曲が開始され、1882年 に第3楽章と第1楽章が、そして翌年に第2楽章と第4楽章が完成します。しかしブラームス派が中心を占めるヴィーンでは初演の機会に恵まれません。放置されるかもしれないこの曲をブルックナーの弟子から紹介されたのが当時まだ若手だった天才指揮者アルトゥール・ニキシュ(1855~1922)でした。ニキシュはハンガリー生まれ。ヴィーン宮廷歌劇団のヴァイオリン奏者でしたが、1878年に指揮者に転向。後にベルリン・フィルの常任指揮者になるのですが、当時はライプツィヒで仕事をしていました。
ニキシュは紹介者であるヨーゼフ・シャルクとのピアノの連弾でこの曲を知るや真価を見出し、何度かブルックナーと手紙でやり取りした後、1884年12月30日、ライピツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団と初演を果たします。
演奏会は大成功となり、奇しくもオーストリア以外で初めて演奏されたブルックナーの交響曲はその後も再演され、1886年には遂にヴィーンでも演奏されます。これによりブルックナーはヴィーンだけでなく国際的に交響曲作曲家としての地位を不動のものとし、その後これまで作曲されていた作品も含めて演奏される頻度が上がっていきました。「交響曲第7番」はブルックナー生前に最も演奏された交響曲なのです。

第1楽章 アレグロ・モデラート。ブルックナーの交響曲の開始らしくトレモロの中から浮かんでくるのはチェロを主体とする雄大な旋律。緩やかに上昇していく第2主題とともにブルックナーらしい壮大なスケールの音楽が織り成されます。

第2楽章 アダージョ。「きわめて厳粛にそしてきわめてゆっくりと」と添え書きがしてあります。作曲していた1882年時点でブルックナーは尊敬するヴァーグナーがもう長くないのではないかと思っていたと言われています。冒頭奏でられるのは祈りのコラール、しかも奏するのはヴァーグナーが発案したとされるヴァーグナー・チューバ(演奏者はホルン奏者です)。この主題が何度も現れて敬虔な想いを重ねていき、クライマックスを迎えます。この部分(楽譜に書かれている練習番号はヴァーグナーの”W”!)ではニキシュの薦めもありシンバルとトライアングルがあとから追加されました。この部分が過ぎると、冒頭のヴァーグナー・チューバが今までとは違うコラールを演奏します。これは1884年にブルックナーがヴァーグナーの死を悼んで加筆した部分です。このメロディーの後にヴァイオリンの旋律の裏で低弦がピチカートを弾いていますが、心臓の音が弱くなるかのようにゆっくりと、小さくなっていき、安らかに幕を閉じるのです。

第3楽章 スケルツォ。「きわめて速く」と指示されたやや野生的なリズムの上にトランペットにより力強く奏されるテーマが転調しながら進んでいき、ゆったりした田園的なトリオの部分を織り交ぜながら音楽が高揚してフィナーレを迎えます。

第4楽章 フィナーレ。「動きをもって、ただし速くなく」シンコペーションで飛び回るようなメロディーが提示されますが、これは第1楽章冒頭の旋律の変奏です。この主題が、パイプオルガンのストップを全開するかように大音量で示されるかと思うと、突然、全楽器が一斉に休符を取る(ブルックナー休止といわれます)など、オルガン的技法を駆使しながら進んでいき、最後は金管楽器が第1楽章のテーマを壮大に演奏して曲を結びます。

(Vc 中村 晋吾)

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