演奏会の履歴

第54回定期演奏会

演奏会チラシ

2023年2月23日(木・祝)横浜みなとみらいホール大ホール
指揮/武藤 英明

曲目/

ベルリオーズ:序曲《ローマの謝肉祭》作品9

 “謝肉祭”すなわち”carnival”といえば、真っ先にリオのカーニバルが思い浮かびます。古くはギリシャ神話のバッカナールに起源を持つこのお祭りは、イースター(復活祭)迄の断食期間(四旬節)を迎える前に行われるもので、この時期、世界中のカトリックの国々では仮装し踊り楽しむ人々の賑わいが見られます。イタリア・ローマにおける謝肉祭も古い歴史を持ちますが、既に中世の頃には宗教的な厳粛さは薄れ、品性を欠いた人々の熱狂ぶりは、教皇が再三呼びかけてさえも鎮めることができなかったと言われています。
ベルリオーズはローマ留学の際にこの地の謝肉祭を目にし、祭りに浮かれる人々の様子を快く感じていなかったことを回想録に綴っています。またその喧騒をオペラ「ベンヴェヌート・チェッリーニ」の中に描きました。このオペラは16世紀に活躍した実在の天才彫刻家チェッリーニの波乱の生涯を描いており、前半(第2幕、改作後の第1幕第2場)は、肉祭の日のローマ・コロンナ広場が舞台です。チェッリーニは恋人テレーザと駆け落ちを企てており、一方で恋敵もテレーザを奪おうと企み、謝肉祭の喧騒の中で両者の駆け引き繰り広げられる場面です。1838年パリ・オペラ座での初演は、僅か4回の公演で打切りという失敗に終わってしまいました。しかし音楽に自信を持っていたベルリオーズは、その中の曲を編集し独立した管弦楽曲として1843年に発表しました。これが序曲《ローマの謝肉祭》です。
 素早い序奏の後、コーラングレがゆったりとした旋律を奏でます。チェッリーニとテレーザが愛を語り合う場面の二重唱です。金管楽器や打楽器の陽気なリズムが加わる全奏の後、軽快なテンポによる祭りの音楽となります。弱音器をつけた弦楽器がサルタレッロ(イタリア南部の陽気な舞曲)を奏で始め、謝肉祭の喧騒が次々描かれ、心弾む浮き浮きとした音楽が盛り上がります。ベルリオーズが得意とする意外な転調やリズムの変化の鮮やかさが爽快感を生む作品で、高度な演奏技術が求められる難曲でもあります。
 初演はベルリオーズの指揮により行われました。初演当日、管楽器奏者たちは軍の式典に駆り出されてしまい、リハーサルに参加できませんでした。ぶっつけ本番に不安を訴える奏者たちにベルリオーズはこう語りかけます。「楽譜の準備は完璧。皆さんは優れた技術を持った音楽家です。私の指揮を良く見れば大丈夫!」惚れ惚れするリーダーの言葉です。初演は大成功となり、以来「幻想交響曲」に並ぶ人気作品として親しまれ続けています。(Flute 庄子 聡)

サン=サーンス:歌劇《サムソンとデリラ》作品47よりバッカナール

  作曲者カミーユ・サン=サーンスについては、ピアノ・オルガンの名手であったこと、音楽以外にも文化・科学に広く興味を持っていたことなど、語ることは多いのですが、『バッカナール』を取り上げるにあたっては、彼が旅行好きであった点に注目したいと思います。サン=サーンスが活躍した19世紀~20世紀は、鉄道や蒸気船などの交通手段が発達し、ヨーロッパの外の世界へ旅行することが一般的になった時代でした。サン=サーンスも療養目的や自身の興味から世界中を旅して周ったと言われています。中でも北アフリカの地を愛しており、そこで出会った音楽を積極的に自身の楽曲に取り入れています。代表的な作品としては『アルジェリア組曲』やピアノ協奏曲『エジプト風』が挙げられます。『サムソンとデリラ』の作曲期間中にも北アフリカのアルジェリアに旅行しており、『バッカナール』において中近東の音楽を用いているのも現地の音楽に刺激を受けたからなのかもしれません。
 歌劇『サムソンとデリラ』は旧約聖書の「士師記」の物語に基づいて作曲されました。「士師記」は、士師と呼ばれる英雄達が異民族に侵略されたイスラエルの民を救済した歴史を記しています。サムソンはその英雄の中の一人で、神から与えられた力を使って異民族(ペリシテ人)に支配されたイスラエルの人々を開放していきます。一方ペリシテ人の美女であるデリラは、美しさでサムソンを誘惑し力の秘密を聞き出そうとします。サムソンは躊躇しつつも、ついにはデリラに秘密を教えてしまい、最後にはペリシテ人に捕らえられてしまいます。
 『バッカナール』はサムソンが捕らえられた後、ペリシテ人が勝利を祝う宴の場面です。サン=サーンスは異民族の宴の様子を表現するために、中近東の音楽的要素を効果的に用いています。最も特徴的なのは、冒頭のオーボエによる序奏から曲全体にわたって使われる、2か所の増2度音程を含んだ音階(ヒジャーズと呼ばれます)でしょう。それ以外にもハープや弦楽器のピッチカートなどによる中近東の楽器の再現、不安定なリズムの使用などによって異民族の宴を表現しています。このように中近東の音楽的要素を用いて、当時の聴衆であるヨーロッパの人々にとっての「異国」を見事に表現したことが『バッカナール』、ひいては歌劇全体が大きな成功を収めた理由の一つといえるでしょう。(Clarinet 並木 正信)

デュカス:交響詩《魔法使いの弟子》

【魔法使いの弟子】この曲はドイツの詩人ゲーテが書いたバラード「魔法使いの弟子」をデュカスが読み、この詩に基づき作曲されました。この詩の内容はと言うと…。
 魔法使いのお師匠さまは、弟子に川から水を汲み、屋敷内の水桶とたらいを水で満たすよう命じて出掛けます。弟子はお師匠さまの呪文を覚えているので、怠けようと呪文でほうきの精霊を呼び出し、ほうきに水がめを持たせると、川から水を汲んでくるよう命じます。ほうきは川で水を汲み、すぐさま戻って水桶に水をぶちまけ、また川に戻って行きます。そうこうするうちに水桶もたらいも、水であふれんばかり。弟子はほうきを止めようとしますが、ほうきを元に戻す呪文を忘れてしまい、そのうち屋敷は大洪水。とっさに弟子は斧でほうきをまっぷたつにしてしまいますが、ほうきはすっくと立ちあがり2本のしもべとなって水を汲み始め、弟子は溺れそうに。そこへお師匠さまが戻り、呪文でほうきをもとに戻し、屋敷も元通りに。デュカスはこのほうきが水を汲むさまを、最初ファゴットにて演奏させ、その後この旋律を様々な楽器の組み合わせで演奏する事により、水があふれ出るさまをスペクタクルに描いています。
【作曲家の弟子】デュカスは独学で音楽を学び始め、16歳でパリ音楽院に入学し作曲を始めます。その後フランスの若手芸術家の登竜門である、ローマ賞に応募しますが、大賞は取れませんでした。デュカスは失望しパリ音楽院を辞め、音楽とは無縁の兵役に就きます。そこで軍楽隊の隊長と出会い、兵役中2ヶ月間オペラの上演を手伝うという任務を命じられます。そのオペラは大成功、デュカスは除隊し、再び音楽の道に戻り、音楽評論家、作曲として活動を始めます。デュカスは完璧主義者だったため、評論家として時には厳しい評論を行い、その姿勢は自身の作品にも及びました。自身作曲した70曲あまりの作品を破棄し、現存する彼の曲は自身が認める20曲ほどしかありませんが、残されたどの曲も魅力的で完成度の高いものとなっています。
 晩年デュカスは作曲活動から離れ、パリ音楽院の作曲科で教鞭をとりました。この時の弟子には、ミヨー、ロドリーゴ、メシアンなど名だたる作曲家がいます。弟子によると、彼は教え子を奮起させる教師だったようで、メシアンに対しては、才能あふれるメシアンと出版契約を交わすよう、楽譜出版社のデュラン社専務に話を通すなどしました。そのメシアンが作曲した「トゥーランガリラ交響曲」のフランス初演を聴いた作曲家のプーランクとオーリックは「全部がデュカスとマルセルデュプレの恐るべき伝統を継ぐものだった」と評しています。デュカスの弟子であるメシアンも作曲家でありながら教育者で、多くの弟子を育てています。多数の映像作品に音楽を提供している日本の作曲家でピアニストの、加古隆さんもその一人。革新的で洗練されたデュカスの系譜はその弟子を通じて、現代にそして日本にも脈々と流れているのではないでしょうか。(Bassoon 岸川 敏明)

ブラームス:交響曲第4番 ホ短調 作品98

【作曲家について】ヨハネス・ブラームスは、ドイツ、オーストリアで活躍した作曲家で、1833年に北ドイツのハンブルクで生まれ1897年にオーストリアのウィーンで没しました。彼は市民劇場のコントラバス奏者のヨハン・ヤコブの長男として生まれました。父親から音楽の手ほどきを受け、7歳からオットー・コッセルにピアノを習い、その後コッセルの師であるエドゥアルト・マルクスゼンに作曲と理論を学びました。この後、ブラームスはヴァイオリニストのエドゥアルド・レメーニやヨーゼフ・ヨアヒム、作曲家のロベルト・シューマンおよびその妻であるクララ・シューマン等、数々の音楽家との出会いを経て、数々の名曲を生み出していきます。 少し脇道にそれますが、ブラームスとシューマン夫妻との間のつながりは深いものでした。特にクララとの絆については憶測も含め様々なエピソードが語られており、幾度も映画化されています。最近では、2009年に「クララ・シューマン 愛の協奏曲」という作品が作られていますので、関心のある方は観てみてください。
 ブラームスは特定のポストに就くというよりは、作曲活動を継続的に実施し、その報酬で生計を立てていたようで、彼のキャリアをわかりやすくいくつかの時代に区切って説明するのは難しそうなので諦めますが、色々な情報に触れる中で印象に残ったのは、彼が思いのほか最近の人だったということです。彼はよく、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンやフランツ・シューベルトといった同じくドイツ・オーストリア系の大作曲家たちと並び称され、また、その作品の外観が古典的ということもあり、何となく同じカテゴリーに括られがちですが、実は彼が生まれた1833年は、意外なことにベートーヴェンやシューベルトの没した5~6年後であり、ブラームスは彼らより明確に後の世代の作曲家なのです。ベートーヴェンやシューベルトの風貌は絵からしかわかりませんが、ブラームスについてはたくさん写真が残っており、立派な髭を蓄えた実際の彼の姿を見ることもできます。
彼が活躍した19世紀後半は、現代へと続く近代国家が成立していった時代です。産業革命を背景に都市が誕生し、音楽が演奏される場所は貴族のサロンから都市のホールへ移り、そこで使用される楽器は、より大きく強い音が出るよう、構造・材料を変えられていきました。例えば、ヨーロッパの歴史的名ホールとして名高い、アムステルダムのコンセルトヘボウや、ウィーンのムジークフェラインザール、また、もう現存していませんが、ベルリンの初代フィルハーモニーが開館したのも、1870~80年代です。ブラームスとほぼ同時期・同エリアで活躍していた著名な作曲家であるアントン・ブルックナーは、演奏に80分もかかる大編成オーケストラのための交響曲を書いていますが、こうした長さや編成において19世紀前半までの作品を凌駕する作品が出てくるのは必然であったのかもしれません。そのような時代の流れの中にあって、ブラームスは私の知る限り、オーケストラであっても2管編成、つまりベートーヴェンやシューベルトの時代の編成とさほど変わらないサイズ、楽曲の形式についても古典的な形式を採用することが多く、ある意味では時代の流れに抵抗しながら、自分の表現を追求していった人だと言えるのではないかと思います。
【楽曲について】交響曲第4番は、1884年から1885年にかけて作曲され、1885年10月25日、作曲者自身の指揮で初演されました。この曲の特徴としてよく挙げられるのが、第4楽章の古典的作曲手法です。主題を提示したのち展開部や再現部を経て終曲に至るというソナタ形式である点は、他の一般的な交響曲とも共通するのですが、特異であるのは、この楽章を構成するそれぞれの部分が、第4楽章冒頭に管楽器によって演奏される「ミ・ファ#・ソ・ラ・ラ#・シ・シ・ミ」というたった一つの旋律の変奏によって構成されているという点です。このことを知った上でこの楽章を聴いてみると、このシンプルな旋律が次々に姿を変えて我々の前に現れる様がよく分かり、圧倒されます。私個人のこの曲に対する印象を一言で表すと、緊張感と凝縮感の高さです。今回の演奏会に向けて練習する過程で、きっとその理由は、美しい旋律や豊かな楽想を、敢えてこの古典的なフォーマットで表現することで、センチメンタルな情感と歯切れの良さの両立に成功しているからなのだと思いました。(Violoncello 甲斐 章浩)